第76話 斬らない勇者
「――斬りません」
リオの声が、玉座の間に響いた。
魔王の広げた両手が、わずかに揺れる。
「……何と言った」
「斬りません。僕は、あなたを、斬りません」
リオは、聖剣をゆっくりと下ろした。
切っ先が、床の黒い石にそっと触れる。
「さっき、先生の首の痕を、この力で断ちました。先生は、死にませんでした。……だから、分かるんです。この力は、斬るための力じゃない。斬らずに、助けるための力です」
「我は、助かりたいのではない」
魔王の声が、初めて硬くなった。
「我は、終わりたいのだ。百年、ここで、ただ待ち続けてきた。我が殺した者たちのことを、毎晩、思い出しながら。……もう、十分だ」
「十分じゃないです」
リオが、即答する。
「あなたは、五魔将を、誰も死なせないように作ったんですよね。負けても構わない、死なせるな、って。……そんな人が、自分だけ死んで終わるなんて、おかしいです」
魔王の目が、大きく見開かれた。
***
「……ならば」
魔王の声が、低くなる。
「斬らせるまでだ」
魔王の右手に、黒い光が集まった。
光は細長く伸びて、一振りの剣の形になっていく。
黒い刃の、細身の剣。百年前、聖剣と一緒に旅をしたもう一振りの剣なのだと、あとになって聞いた。
魔王が、踏み込んだ。
――速い。ガルムよりも。俺よりも。
小柄な体が床を蹴った瞬間には、もうリオの目の前にいた。
黒い刃が、リオの聖剣を横から叩く。
リオの体が、床の上を三歩後ろへ滑った。
リオは足で床を固めて、止まった。
魔王が、追ってくる。懐へ。大きな相手には、懐が安全。――リオは魔王より背が高いのだから、魔王にとってはそれが正しい攻め方だった。
(……同じや)
ボルドとセレスに支えられながら、俺は魔王の剣を見ていた。
重心を前に。脇を締めて。一拍だけ遅らせる剣。
百年前、たった一人で誰にも教えてもらえずに、この人は自分でそれを見つけたのだ。リオが半年かけて身につけた剣と、まったく同じものを。
リオは、魔王の剣を受け続けた。
受けるだけ。一度も、斬り返さなかった。
***
「なぜ、斬らぬ!」
魔王が、叫んだ。
黒い刃が、リオの肩をかすめる。
革の胸当てが裂けて、リオの腕に赤い筋が走った。
「斬れ! そなたが斬らねば、我は、また百年、ここで待たねばならぬ! そなたの次の勇者が来るまで!」
リオは、答えなかった。
腕の傷を押さえもせずに、聖剣を構え直す。
「リオ!」
ノエルが杖を握りしめて、飛び出しかけた。
ボルドが俺を支えたまま、片手でノエルの肩をつかんで止める。
「坊主が、自分で決めたことだ」
ボルドの声は、低かった。
――そのとき。
俺の右側で、冷たい肩がすっと離れた。
セレスだった。
俺の腕をボルドに預けて、セレスは一人で、玉座の間の真ん中へ歩いていく。
リオと魔王が刃を交えている、そのすぐ横へ。
「――魔王様」
氷のように澄んだ声が、剣の音を断ち切った。
***
魔王の剣が、止まった。
リオも聖剣を構えたまま、セレスを振り返る。
セレスは、魔王の前に立っていた。
細い背中が、すっと伸びている。指先から、白い冷気が細く立ちのぼっていた。
「一つだけ、聞かせてください」
セレスの声は、静かだった。
「百年前、北の故郷で、氷の魔将が討たれました。首に、聖剣の痕を刻まれて。三日目の朝に、二人の娘の手を握ったまま、雪が溶けるように消えていった」
魔王の顔から、血の気が引いていく。
「その魔将を討ったのは、あなたですか」
玉座の間が、しんと静まり返った。
魔王は、しばらく何も言わなかった。
黒い刃を握った手が、小刻みに震えている。
それから、魔王は剣を下ろした。
「……そうだ」
魔王は、顔を上げなかった。
「我が、討った。……そなたの、母を」
セレスの指先から立ちのぼっていた冷気が、ふっと止まる。
「だから、氷の座を、そなたに預けた」
魔王は、セレスの前で膝をついた。
黒い冠を戴いた頭を、深く下げる。
百年、帳の奥に座り続けてきた魔王が、氷の魔将の前で床に額をつけるほどに。
「すまなかった」
声が、震えていた。
「百年、そればかり、思い出していた。……すまなかった」
***
セレスは、膝をついた魔王を見下ろしていた。
長い沈黙。玉座の間の誰もが、息を詰めて二人を見ていた。
「……母は」
セレスが、口を開く。
「最後の朝、私と妹の手を握って、言いました」
セレスの声が、かすかに揺れた。
「――あの勇者は、泣いていた、って」
魔王の肩が、びくりと震える。
「私の首に剣を当てながら、あの勇者は、泣いていた。だから、恨まないで。あの子も、きっと、誰かに教えてもらいたかったのよ、って」
セレスは、魔王の前に膝をついた。
魔王と、同じ高さに。氷の一族の細い手が、魔王の震える手にそっと重ねられた。
「百年かかりましたけど、母の言っていたことが、やっと分かりました」
セレスの口元が、ふっとほどける。
「この人も、私と同じだった。……誰かに、教えてもらいたかったんだ、って」
魔王が顔を上げた。黒い目から、涙が一筋こぼれ落ちた。
百年前、氷の魔将の首に剣を当てながら流したのと、たぶん、同じ涙が。
「だから、もう、死のうとしないでください」
セレスは、魔王の手をしっかりと握った。
「母は、あなたを恨んでいなかった。……私も、もう、恨んでいません」




