第75話 魔王の間
魔王の間へ続く廊下は、長くて、暗かった。
ボルドが俺の腕を肩に回して、支えてくれている。
膝に力が入らず、一人ではまっすぐ歩くこともできなかった。
「……すまん」
「重いな、あんた」
ボルドは、あとは黙って歩き続けた。
前を、リオが歩いている。
聖剣は、まだ金色に光ったままだ。その後ろに、ノエルとミレイユが続いていた。
廊下の途中で、二つの人影が壁際に立っていた。
銀色の髪の女と、獅子の頭の大男。
セレスとガルムだった。
「……来たのね」
セレスが俺の割れた兜を見て、小さく息を呑んだ。
それから、首元に目をやる。痕がないのを確かめて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「負けたの?」
「ああ。本気で」
「そう」
セレスはそれ以上何も言わずに、俺の反対側の腕を自分の肩に回した。
氷の一族の肩は、細くて、冷たかった。
ガルムが、リオを見下ろしている。
「……勝ったのだな、勇者」
「はい」
「本物の勝ちか」
「本物です」
ガルムは、獅子の顔をふっとほころばせた。
「なら、行け。我らも、ついていく。……魔王様の、最後を見届けるために」
***
廊下の突き当たりに、黒い扉があった。
扉の奥は、玉座の間だ。
何度も首のない騎士の後ろについて、片膝をつきに来た部屋。
黒い柱が並び、その一番奥に、分厚い帳が下りている。
リオが、帳の前で足を止めた。
俺たちは少し離れて、その後ろに並んだ。
「……勇者」
帳の奥から、声がした。
若くて、疲れた声。
リオの肩が、びくりと震えた。
「その声……」
リオが、手の中の聖剣を見下ろした。
金色の刃。その奥から何度も聞こえてきた、眠たげな声。
――第一の封印、解放。
――残る封印は、四つ。五魔将を、倒しなさい。
「聖剣の、声と、同じ……」
帳の奥で、小さく息が漏れた。
「……よく、気づいたな」
帳が、ゆっくりと上がり始める。
***
帳の奥に、玉座があった。
黒い石の大きな玉座に、一人の少女が座っていた。
小柄だった。長い黒髪が、膝まで流れ落ちている。
肌は、透けるように白い。顔立ちは、リオとそれほど変わらない年に見えた。
頭の上に、黒い冠が載っていた。
細い黒鉄の輪に、小さな黒い宝石が一つだけ埋め込まれた、飾り気のない冠。
――魔王の、証。
黒い目は深くて、静かで、ひどく疲れていた。
少女は玉座の肘掛けに手を置いて、立ち上がった。
細くて、小さな、白い手。
帳の隙間から、俺に魔力を分け与えてくれた手だ。
「我が名は、ノクス。……百年前は、ルミエラという名だった」
***
ルミエラ。
原作のどこにも出てこない名前だった。
ゼクスの最初の版では、その名前が物語の主人公だったのだろうか。
「百年前、我は、聖剣に選ばれた。北の小さな村の、祠の掃除当番だった。……剣の振り方も知らぬ村娘で、騎士には、筋がないと言われた」
リオが、はっと顔を上げた。
「そなたと、同じだ」
疲れた目の奥に、懐かしそうな光が浮かんでいた。
「聖剣の声は、我が、剣の中に残してきたものだ。……我は、誰にも、剣を教えてもらえなかった。だから、次の勇者には、せめて、行く道だけでも示してやりたかった」
リオが、手の中の聖剣をもう一度見下ろした。
「我は、先代の魔王を討って、魔王になった。……魔王を殺した者が、次の魔王になる。自ら終わることも、許されぬ。そういう呪いが、この世界には、何百年も続いている」
ノエルが、ひゅっと息を吸い込んだ。
「先代の五魔将は、旅の途中で、我が皆、殺した。だから、五魔将は、負けても死なぬ者を選んで、作り直した」
俺の肩を支えるセレスの手が、冷たく、固くなる。
「負けても構わん。ただ、死なせるな。……百年、何度そう命じたか、分からぬ」
――負けても構わん。ただ、死なせるな。
帳の前で、聞いた言葉だ。
あれは、百年前に死なせた者たちの代わりに、言い続けてきた言葉だったのか。
魔王の目が、俺を見た。
ボルドとセレスに支えられてようやく立っている、割れた兜の男を。
魔王は、少しだけ目を伏せる。
「……一度、そなたに言いかけたことがある。我を斬った者が、どうなるか。言えば、そなたは、勇者に我を斬らせまいとしただろう」
――そのとき、我を斬った者が、どう。
ガルムを救ったと報告した日に、言いかけてやめた言葉。
焚き火の前で考えるのをやめた、その先がここにあった。
***
「勇者リオ」
魔王が、リオに向き直った。
「そなたは、五つの封印を解いた。聖剣は、最後の力を、そなたに渡した。命を奪わずに、呪いだけを断ち切る力を。……五魔将を皆殺しにした百年前の我には、手にできなかった力だ」
魔王は、玉座の段を一歩降りる。
「その力で、我を斬れ」
玉座の間が、静まり返った。
「呪いは、そなたには移らぬ。……そなたは、魔王を倒した勇者として、故郷へ帰れ。それが、勇者だった我が、最後にできることだ」
魔王の声は、穏やかだった。
ずっと前から、この台詞を心の中で何度も繰り返してきたように。
魔王は、両手をゆっくりと広げた。
無防備に。
斬られるために。
リオは、聖剣を握ったまま、動かなかった。
金色の光が、刃の上で静かに揺れていた。




