第74話 答え
しばらく、二人とも床に座り込んだまま動けなかった。
燭台の炎が、静かに揺れている。
壁の三日月形の亀裂から落ちる石の粉が、いつの間にか止まっていた。
リオは膝を抱えて、聖剣の柄を握りしめていた。
指を開こうとして、開けずに、また握る。手が、まだ震えている。
その目が、ときどき俺の首の後ろへ行っては逸れる。痕は、まだ熱かった。
「……すみません」
柄から指をはがしながら、リオが言った。
「勝ったのに、手が、止まらなくて」
「止めんでええ」
思わず、そう言っていた。
「廃砦でも、震えとったやろ。勝ったときに震えて、何が悪い」
リオが顔を上げる。唇を、きつく噛んでいた。
「……先生、さっきから、喋り方が」
「ああ」
「ちょっと、変わりましたよね」
――気づかれた。
大技のあと、「割れるもんなら、割ってみい」と言ったときから。
魔将の芝居が、もうどこにも残っていなかった。
「……こっちが、素や」
リオはきょとんとした顔をして、くすりと笑った。
「なんか、先生っぽいです」
***
「――リオ」
名前を、呼んだ。廃砦で初めて会ってから、半年。
心の中では、何度も呼んできた名前だ。でも、口に出して呼んだのは数えるほどしかなかった。
リオの背筋が、ぴんと伸びる。
「約束やったな。勝ったら、聞かせる」
「……はい」
リオが、膝を抱えていた手をほどいた。
床の上に、きちんと座り直す。
俺も床に膝をついたまま、背筋を伸ばした。
――答え。
桟橋で違うとだけ言って、その先を言えず、マリネラの宿で言いかけて、止められた。
ミレイユに聞かれた夜から、ずっと探していた答え。
そのとき、あなたは何と言うの、と。
――探さなくても、よかったのだ。
答えは、最初から、ここにあった。
言葉にするのが怖かっただけだ。
首の後ろが、じりじりと熱い。
三日のうちに死ぬんなら、なおさら、今、言わなあかん。
***
「俺はな、この世界の人間やない」
リオの唇が、小さく開いた。
「前の世界で、死んで、気づいたら、ヴァルガスになっとった。廃砦で、お前と向き合った、その瞬間に」
「……前の、世界」
「前の世界で、俺は、この世界の物語を作る仕事の、いちばん端っこにおった。物語の中で、壊れてるところを見つけて、紙に書いて報告する仕事や」
リオは、黙って聞いていた。
分からないことだらけのはずだ。それでも、一言も口を挟まなかった。
「だから、知っとった。この先、何が起きるか。お前が、どこへ行って、誰と戦うか。……勇者が負けたら、世界が終わるってことも」
桟橋で言ったことだ。世界のため、と。
「最初はな、ほんまに、それだけやった」
嘘は、つかないと決めていた。
「廃砦で、震えとるお前を見て、勝たせなあかんと思った。お前に勝ってもらわんと、世界が終わる。俺も、死ぬ。……それは、仕様の話や。お前やなくても、聖剣を持っとるやつやったら、誰でも同じことをしたと思う」
リオの肩が、小さく揺れる。
「でもな」
声が、震えた。
「ブランシュの河原で、お前がまっすぐ振れて、泣いたとき」
***
夕暮れの河原。三日しか習っていない剣を、毎日一人で振り続けて、どうしても右に流れて、なんでなのか誰も教えてくれなかった、と声を詰まらせた少年。
「あのとき、もう、世界のことなんか、考えてへんかった」
リオの膝の上で、拳がぎゅっと握られた。
「お前に、勝ってほしかった。世界のためやなくて。……お前が、勝って、笑うとこが、見たかった」
リオの目から、涙がこぼれた。
言ってしまった。ずっと、言葉にするのが怖かったこと。
言ってしまえば、自分がただの中ボスではいられなくなること。
「前の世界ではな、俺の仕事は、誰にも見てもらえへんかった。何百枚報告書を書いても、誰も読まへん。直すのは別の人で、褒められるのも別の人で」
会社の床の、冷たさ。
「お前は、見てくれた。俺の教えたことを、全部、まっすぐ受け取って。百回振れ言うたら、ほんまに百回振って。……先生って、呼んでくれた」
リオが、懐の上から何かを握りしめた。
「嘘は、ついた。たくさん。ヒュドラのことも、氷の巨人のことも、俺が誰なのかも。……それは、謝る。ほんまに、すまんかった」
床に両手をついて、頭を下げた。
五魔将の筆頭が、十五歳の勇者の前で。
「でもな、リオ」
顔を上げる。
「お前に剣を教えたことだけは、一個も、嘘やない」
***
リオは、何も言わなかった。
声を上げずに肩を震わせて、懐の上の手を握りしめたまま、それでも目は一度も閉じなかった。
――目だけは、閉じるな。
ボルドの言葉を、この子は最後まで守っている。
それから、リオは懐に手を入れた。
取り出したのは、黒い金属のかけらだった。
廃砦の帰り道、トロルの残骸の上に落ちてきた、兜のかけら。
半年間、ずっと持ち歩いてきたもの。マリネラの宿で、答えを聞いてから返すと言ったもの。
リオは、それを両手で俺の前に差し出した。
「……返します」
リオの目は、俺から逸れない。
「先生の、答え、聞いたから」
かけらを、受け取った。
手のひらに載せると、指の一本分ほどしかない、小さなかけらだった。こんなに小さなものを、この子は半年間ずっと握りしめてきたのだ。
かけらの縁は、すっかり丸くなっていた。
何度も、何度も、握りしめられて。
俺はかけらを見つめてから、リオの手を取って、その手のひらにかけらを載せ直した。
「……先生?」
「これは、お前が持っとけ」
リオが、目を瞬いた。
「お前が、初めて勝った証や。廃砦で、震えながら、俺の兜を割った証」
リオの手を両手で包み込んだ。
「……あれは、俺がわざと負けたんやない。お前が、ちゃんと勝ったんや。最後の一振りは、お前の剣やった。俺が教えた構えで、お前が自分で踏み込んだ」
リオの手のひらの中で、黒いかけらが温かい。
「だから、持っとけ」
リオはしばらく、俺の手と自分の手と、その中のかけらを見つめていた。
ぎゅっと、かけらを握りしめた。
「……はい、先生」
かけらを握ったまま、リオは床に置いていた聖剣をもう片方の手で取った。
「先生の答え、聞いたから。……何を残して、何を断てばいいのか、分かりました」
刃の上で、金色の光が今度は揺れずに形を結んでいく。
「じっとしててください」
金色の光をまとった聖剣の切っ先が、俺の首の後ろにそっと触れる。
――痛くなかった。
焼けるような熱さが、すうっと引いていく。
首の後ろの痕が、糸をほどくように一本ずつほどけていくのが分かった。
リオは、目を閉じない。
聖剣の切っ先を、痕の最後の一筋までまっすぐに当て続けていた。
最後の熱が、消える。
首に手をやると、そこにはもう何もなかった。
つるりとした、ただの皮膚があるだけ。
***
筆頭の間の扉が、勢いよく開く。
「リオ!」
白い法衣の少女が、転がり込むように飛び込んできた。
ノエルだった。後ろから、ボルドとミレイユが続いてくる。
ノエルは床に座り込んでいるリオに駆け寄って、その肩を抱きしめた。
「大丈夫!? 怪我は!? なんで、そんな顔してるの!? まさか――」
ノエルの目が、俺に向いた。
割れた兜。首元の、消えかけた白い筋の跡。床に転がった大剣。
そして、リオの手の中の、黒いかけら。
ノエルは、俺を睨んでいた。
ぷいっと、顔をそむける。
「……リオを、こんなに泣かせて」
「すまん」
「次に泣かせたら、許さないから」
顔をそむけたまま、ノエルは言った。耳が、少しだけ赤い。
「……今回だけは、許してあげる」
ボルドが扉の枠にもたれて、低く笑っていた。
何も言わずに、ただ、うなずいている。
ミレイユが杖をついて、俺の前に立った。
翡翠色の目で、俺の顔をじっと見下ろす。
「――答え、出たのね」
「……ああ」
「聞いてたわよ。扉の外で。全部」
ミレイユは、口の端を上げた。
「合格よ、先生」
***
そのとき、遠くで、鐘が鳴った。
――ごおおおん。
一度だけ。低く、長く、魔王城じゅうに響き渡る音。
鐘楼で、ギギが鳴らしたのだろう。
終わったら、鳴らしてもよろしいでしょうか、と言っていた。どちらが勝っても。
鐘の音が、尾を引いて消えていく。
その余韻の中で、リオが、ふと顔を上げた。
手の中の聖剣が、かすかに光っている。
「……声が、聞こえます」
リオが、呟いた。
「聖剣の声。……来なさい、勇者、って」
筆頭の間の奥の、もう一つの扉。
魔王の間へ続く最後の扉が、音もなく、ゆっくりと開き始めていた。




