第73話 本気で負ける
筆頭の間の床に、二つの影が向かい合っていた。
燭台の炎が、ゆらゆらと揺れている。
壁に刻まれた三日月形の亀裂から、細い石の粉がさらさらと落ち続けていた。
リオは、最初に教えた構えのまま、動かなかった。
足で床を固めて。重心を前に。脇を締めて。
廃砦の日に、俺が怒鳴りながら教えた構え。
俺も、大剣を構えたまま、動かなかった。
――次で、終わる。お互いに、それが分かっていた。
黒鎧の中で、魔王の魔力が静かに脈を打っている。
冷たくて、静かで、寂しい魔力。百年、帳の奥で待ち続けた誰かの魔力だ。
まだ尽きていない。でも、リオの聖域に何度も遅らされて、少しずつ流れが鈍くなっている気がした。
(……長引いたら、俺の負けや)
なら、一撃で決める。
***
大剣を、高く振りかぶった。
両手で、頭の上に。身の丈ほどもある黒い刃を、まっすぐ天井に向けて。
――大技だ。
全身の魔力を刃に集める。
黒い光が大剣の刃を這い上がって、燭台の炎を飲み込むほどに膨れ上がっていく。
刃が重く、その重さに体が後ろへ引かれていく。
右足を、一歩、後ろに引いた。
――重心を、前に残すために。
白霧の神殿の雪原で、氷の巨人の中で何度も転びながら覚えた動き。大技を出すときは、片足を後ろに引いて転ばないように支える。
その瞬間、リオの目が俺の足元に動いた。
「――先生」
リオの声が、静かに響く。
「大技のとき、片足を、後ろに引きますよね」
息が、止まった。
「白霧の神殿で、氷の巨人が、そうしてました。……先生が、雪原で、教えてくれたとおりに」
――巨人が大技を出すとき、片足を後ろに引く。それが合図だ。
雪原の稽古で、俺がリオに教えたこと。
自分が中に入る巨人の、弱点を。
「あのとき、巨人の動きが、先生に似てるって思ったんです。……今、分かりました。あれ、先生の癖だったんですね」
(……自分で自分の攻略本を書いとったんは、雪原の日だけやなかったんか)
廃砦から、ずっと。俺は、この子に自分の倒し方を教え続けてきたのだ。
***
振り下ろした。
止められなかった。全身の魔力を込めた大技は、一度振りかぶったらもう止まらない。
黒い光の塊が、天井から床へ落ちていく。
リオが、前に出た。
避けるのではなく、振り下ろされる刃の内側へ。
――一歩目で、俺の膝を踏んだ。
後ろに引いた右足ではなく、前に残した左の膝。
重心を支えている、その膝を。
――二歩目で、肩を踏んだ。
大剣を振り下ろす腕の、付け根を。
――三歩目で、空へ跳んだ。
ブランシュの夜と、同じだった。
ヒュドラの前で、俺が言った。
俺の膝を踏め。肩を踏め。そこから跳べ。
あのとき、リオは俺の体を踏み台にして、空へ跳んだ。
――今も、同じだ。
敵の体を。自分が倒すべき、五魔将筆頭の体を、踏み台にして。
大剣が、リオのいなくなった床を叩き割った。
黒い光が床石を砕いて、筆頭の間じゅうに粉塵を巻き上げる。
その粉塵の上に。燭台の炎を背にして、白い剣を握った少年の影が、高く、高く浮かんでいた。
***
見上げた。
リオが、落ちてくる。聖剣を、両手で、大きく振りかぶって。
脇を締めて、重心を前に、目を閉じずに。
(……ああ)
大剣は、床に食い込んだまま。
避けられない。受けられない。
――全部、教えたとおりだ。
いや、教えた以上だ。
廃砦で、重心を踵に乗せて震えていた少年が。
ブランシュの河原で、まっすぐ振れたと声を上げた少年が、雪道で滑って、砂漠で二十本負けて、海の底で二十三回なかったことにされた少年が。
今、俺の頭上から、まっすぐに落ちてくる。
採点しようとして、やめた。
点数なんか、もう、つけられへん。
聖剣が、俺の兜の、額の銀の紋章に、吸い込まれた。
――パキン。
乾いた音。
廃砦で、兜が割れたときと、まったく同じ音だった。
***
兜が、額から真っ二つに割れた。
割れた兜の破片が、床の上にからからと転がっていく。
筆頭の証の小さな銀の紋章が、粉々に砕けて燭台の光の中に散った。
撃破判定、成立。
(よし、負け――)
言いかけて、止まった。
――よし、じゃない。
廃砦でも、白霧の神殿でも。
俺は負けるたびに、心の中で「よし」と言ってきた。負けることを自分で決めていたから。計画どおりに負けられたことを、喜んでいたから。
今日は、違う。
俺は、勝つつもりで戦った。
全力の黒閃を撃って、全力の大技を振り下ろして。それでも、負けた。
膝が、崩れた。
床に両膝をつく。大剣の柄から手が離れる。黒鎧の中で脈を打っていた魔王の魔力が、すうっと引いていく。
「……負けた」
声が、かすれた。
「本気で、負けた」
――悔しかった。
胸の奥が、焼けるように、悔しい。
前の世界でも、この世界でも、こんなに悔しいと思ったことは、一度もなかった。
そして、同じくらい。いや、それ以上に。
――嬉しかった。
***
首の後ろが、熱くなった。焼けるような熱さ。
手をやると、皮膚の上に細い筋のようなものが浮かび上がっているのが分かる。
(……痕、か)
聖剣に討たれた魔将の首には、光の痕が残る。
痕を刻まれた魔将は、三日のうちに死ぬ。
ブランシュの地下水路で、セレスが言ったこと。
廃砦では、聖剣の光が首に届く前に煙と一緒に消えたから、痕は残らなかった。
今日は逃げずに、本当に討たれた。だから、痕が残る。
――これが、本気で負けるということか。
不思議と、怖くはなかった。
床に膝をついたまま、目の前に着地した少年を見上げる。
リオは、聖剣を握ったまま立っていた。
肩で息をしている。顔が汗でぐしゃぐしゃになっている。
その目が、俺の首元に止まった。
「……先生、首に」
リオの顔から、血の気が引いていく。
「白い、線が……」
「ああ」
「それ、ミレイユさんが言ってた……聖剣に討たれた魔将は、首に痕が残って、三日で――」
リオの声が、途切れた。
「……三日で、死ぬ」
俺が、言葉を引き取る。
***
リオの手から、聖剣が滑り落ちそうになった。
「そんな……」
声が、震えている。
「僕、先生を、殺そうなんて……そんなつもりじゃ……」
「分かっている」
「勝ったら、聞かせてくださいって、約束したのに……! こんなの……!」
リオが聖剣を放り出して、俺の前に膝をついた。
俺の首元の痕に、震える手を伸ばす。
触れたら熱いのだろう。リオの指先が、痕の手前で止まった。
――そのとき。
床に転がった聖剣が、光った。
白い光ではなかった。金色の、柔らかい光。
光が、リオの手にすうっと吸い寄せられていく。
リオが、はっとしたように聖剣を見下ろした。
頭の奥に、あの声が響いているのだろう。
リオの唇が、聞こえてくる言葉をなぞるように動いた。
「……第五の封印、解放」
リオが、息を詰める。
「命を奪わずに……断つ、力……?」
***
リオは、聖剣を拾い上げた。
白い刃が、金色の光に包まれている。
四つの封印が解けたときの、白い光ではない。温かくて、柔らかい、夜明けの光のような色。
リオは、俺の首元を見つめた。
「……先生」
声は震えていたが、目は、まっすぐだった。
「じっとしててください」
金色の光をまとった聖剣の切っ先が、俺の首の後ろにそっと当てられる。
――何も、起きなかった。
金色の光は、刃の上でゆらゆらと揺れるだけだった。
形にならない。首の後ろの熱さも、少しも引かない。
「……どうして」
リオが切っ先を当て直す。光が揺れて、また、ほどけて消えた。
「どうして……! 断つ力だって、聖剣が……!」
――断つ。
白霧の神殿の地下で、リュシーの楔に黒閃を通したとき。斬るんやない、断つんや、と思った。
ザハルの宿の裏庭では、ミレイユが言っていた。五つ目の欄にだけ、一語。断つ、と。
(何を断つんか、まだ、この子には分かってへんのや)
断つには、断つものと、残すものがいる。
その見分けがつかないまま振っても、刃は何も断てない。
俺は、リオの手首をそっとつかんだ。
「三日ある。焦るな」
「でも……!」
「三日ある」
リオの手から、少しずつ力が抜けていく。
それでも、柄だけは、離そうとしなかった。
この子は、断つ力を手にした最初の一振りを、自分を倒しに来た敵の首の痕に向けた。
本気で戦って、本気で倒した相手を、死なせないために。
(……ほんまに、あほで、勇者や)
兜の割れた額に、筆頭の間の冷たい空気が触れていた。
首の後ろの痕だけが、まだ、焼けるように熱かった。




