第71話 本気の黒閃
リオの一歩目は、速かった。
ザハルの豹の少年よりも、ずっと。
床を蹴る音が、ほとんど聞こえない。燭台の炎が、リオの起こした風で一斉に横に揺れた。
懐へ。大きな相手には、懐が安全。
――知っている。それを、俺はリオから盗んだのだから。
大剣の柄を、短く持ち替えた。
懐に飛び込んできたリオに、柄頭をまっすぐに突き出す。
リオが首をひねって、それをかわした。
かわしながら、聖剣を下から斬り上げてくる。ほんの一拍だけ遅らせた、ザハルで覚えた剣。
大剣の腹で受けた。白い刃と黒い刃が、ぶつかり合う。
火花の代わりに、白と黒の光が筆頭の間に弾け散った。
半年前、廃砦で俺の兜を割った剣とは、比べ物にならないほど重い。
(……強なったな)
***
押し返した。リオの体が、床の上を三歩後ろへ滑る。
足で床を固めて、止まる。すぐに、構え直す。
――ここからだ。
今までなら、ここで隙を作ってやった。
わざと大振りに。わざと遅く。左脇の継ぎ目を見せてやった。
今日は、しない。
踏み込んだ。俺の一歩目も、速い。
魔王の魔力が、黒鎧の中で脚に力を貸している。リオとの距離が、一瞬で半分になった。
大剣を横なぎに振る。
リオが跳んだ。大剣の上を、飛び越えるように。空中で体をひねって、聖剣を俺の兜へ振り下ろしてくる。
――兜は、割らせない。
大剣を返して、聖剣を下から弾いた。
リオの体が空中でくるりと回り、そのまま床に着地する。
すぐに、また跳んでくる。
右から、左から、正面から。一合、二合、三合と、白い刃と黒い刃が何度も何度もぶつかり合う。
十合を過ぎたころ、リオの剣が俺の籠手をかすめた。
黒鎧の表面に、細い傷が走る。
――浅い。でも、確かに届いた。
次の瞬間、俺の大剣がリオの肩当てを打っていた。
リオの体が、床の上を転がっていく。
筆頭の間の壁際まで転がって、ようやく止まった。
「……っ」
リオが膝をついたまま、肩を押さえた。
肩当てが、大きくへこんでいる。
骨は、たぶん折れていない。でも、しばらくは腕が痺れているはずだ。
――手加減は、していない。
***
「立て」
声が、自分でも驚くほど冷たく出た。
「その程度か、勇者」
リオが顔を上げた。痛みに顔をしかめながら、それでも、目は俺を見ている。
足で床を固めて立ち上がる。聖剣を構え直す。
――立った。
(……ええぞ)
そう思いかけて、気づいた。
――今、採点していない。
廃砦でも、ブランシュでも、雪の国でも、砂漠でも。
リオが剣を振るたびに、俺は心の中で点数をつけていた。今の踏み込み、十点満点で四点。今の跳び方、八点。
今日は、一度もつけていない。
つける余裕が、ないのだ。
リオの剣を受けるのに、全部の集中を使っている。採点している暇など、どこにもない。
(……ほんまに、本気なんやな、俺)
***
リオが走った。さっきよりも、さらに速い。
肩の痛みをまるで感じていないかのように。
大剣を、構える。――ここで、決める。
黒閃。テストのときの百分の一でも、千分の一でもない。ブランシュの盗賊の弓の弦を斬ったときの細さでも、リュシーの楔を断ったときの細さでもない。
全力の、黒閃。
強すぎて調整を諦められた、没技。
データだけが残って、誰も正面から撃ったことのない技。
大剣を振った。黒い三日月が、筆頭の間を真正面から駆け抜けた。
ブランシュの夜、ヒュドラを両断した斬撃よりも、さらに太く、さらに速い。
燭台の炎が一斉に吹き消された。部屋が、一瞬真っ暗になる。
黒い三日月の向こうで、白い光が一点だけ輝いていた。
――聖剣だ。
リオが、聖剣を床に突き立てていた。
白い光が、刃から床へ、波紋のように広がる。
リオの周り、三歩の範囲に。
聖域。
黒い三日月が、聖域の縁に触れた。
――遅くなった。
黒閃が、蜂蜜の中を進むようにのろのろと聖域の中へ入っていく。
魔力で放った斬撃は、魔力の働きを遅らせる聖域の中では、速さを失う。
リオは、のろのろと迫ってくる黒い三日月の下をくぐり抜けた。
ザハルの闘技場で、獣の前脚の下に聖剣を突き立てに飛び込んだときのように。
迷わずに、目を、閉じずに。
黒閃が、リオの頭の上をゆっくりと通り過ぎていく。
リオの金色の髪が、ひと房だけ切れて舞った。
そして、聖域の外に出た瞬間、黒閃は元の速さに戻った。
――ずん。
筆頭の間の壁に、巨大な三日月形の亀裂が刻まれた。
***
燭台の炎が、一つ、また一つと勝手に灯り直していく。
暗闇が晴れたとき、リオは俺の三歩手前に立っていた。
聖剣を床から引き抜いて。
息を荒くしながら、それでも、まっすぐに構えて。
――全力の黒閃を、避けられた。
いや、避けたのではない。
聖域で遅くして、その下をくぐったのだ。
ブランシュで俺がヒュドラを斬るために、リオの剣の軌跡をなぞったように。
この子は、俺の黒閃の軌跡を、見切った。
「……先生の、黒閃」
リオが、荒い息の合間に言った。
「ブランシュの夜に、一度、見ました。ヒュドラを斬ったとき。……あのとき、すごいって思った。自分も、いつか、あんなふうに斬れたらって」
リオは、聖剣を構えたまま俺を見ている。
「だから、ずっと、考えてたんです。あの斬撃を、どうやったら、受けられるかって」
――ずっと、考えていた。
この子は、俺の技を半年かけて見続けていたのだ。
いつか自分が、それと向き合う日のために。
(……あほか)
思わず、兜の中で口元が緩んだ。




