第70話 筆頭の間
筆頭の間は、円い部屋だった。
天井が高く、壁には窓がひとつもない。ぐるりと並んだ燭台の炎だけが、床の黒い石をぼんやりと照らしている。
原作では、最終章の直前にほんの一行だけ名前の出てくる部屋だった。テストのときには、扉の向こうに何も置かれていない空っぽのマップがあるだけ。
筆頭の魔将の姿も台詞も戦闘の仕組みも、どこにも用意されていなかった。データの上では、ここは誰も入ることのない部屋だったのだ。
部屋の真ん中に、俺は立っていた。
黒鎧に黒い大剣、そして頭には、黒い兜。足元の黒い石の床は、塔の最上階にあるとは思えないほど冷たい。燭台の炎が揺れるたびに、自分の影が壁の上で大きくなったり小さくなったりしていた。
魔王が、新しく用意してくれたものだ。
廃砦で割れた兜と、まったく同じ形をしている。違うのは、額のところに小さな銀の紋章が一つ埋め込まれていることだけ。
――五魔将筆頭の、証。
これが割れたとき、最後の封印が解ける。
ふりではなく。本当に、俺が負けたときに。
***
扉の向こうで、足音が止まった。
四人分の足音。それから、短い話し声が扉越しにかすかに聞こえてくる。
「――リオ、本当に、一人で行くの?」
ノエルの声。
「うん。……みんなは、ここで待ってて」
「でも……!」
「お願い、ノエル。これは、僕と先生の戦いだから」
少しの沈黙。
「……ちゃんと、帰ってきなさいよ」
「うん」
ボルドの低い声が何かを言ったが、聞き取れなかった。
ミレイユは、何も言わなかったようだ。
扉が、ゆっくりと内側に開いた。
***
金髪の少年が、一人で筆頭の間に足を踏み入れた。聖剣は、まだ鞘の中。
扉が背後で閉まる。重い扉の閉まる音が円い部屋の壁に跳ね返って、しばらくのあいだ天井の高いところで響き続けていた。
リオは、部屋の入口で足を止めた。
燭台の炎の中に立つ黒い鎧の男を、見据えている。
黒い兜。廃砦で自分が割ったものと、同じ形の兜を。
リオの目がわずかに揺れたのが分かった。廃砦の日、震えながら見上げてきた目と同じ色をしているのに、そこに宿っているものは、あの日とは別のものだった。
俺は大剣を床から持ち上げ、肩の高さで構える。
――廃砦の、あの日。口が、勝手に動いていた。
三千回は聞いた台詞が、口からこぼれ出た。
今日は、違う。口が覚えているからではない。俺が、自分で選んで、言う。
「――よくぞ来た、勇者よ」
声が、筆頭の間に低く響いた。
「我こそは、魔王軍五魔将が筆頭。黒鎧のヴァルガス」
――あ、待って。
あの日は、ここで、そう思った。
これ、俺の台詞か、と。
今日は、思わなかった。
これは、俺の台詞だ。十五分で倒されるチュートリアルの中ボスの台詞ではなく。半年かけてこの子に剣を教えてきた、五魔将筆頭の台詞だ。
***
リオは、しばらく黙っていた。
燭台の炎が、小さく揺れる。
部屋の中に、二人分の呼吸の音だけが響いている。
「……先生」
リオが、口を開いた。
「今は、先生ではない」
即答した。
「今の我は、魔王軍五魔将筆頭。お前が倒さねばならぬ、最後の魔将だ」
リオの唇が、きゅっと結ばれる。
「……分かってます」
リオは、聖剣の柄に手をかけた。
「ミレイユさんから、聞きました。先生が、筆頭だって。魔王様の命令で、本気で戦うって。……ガルムさんからも、聞きました。先生は、勝つつもりで、昨日の夜、九百回、剣を振ってたって」
リオは、聖剣を抜いた。
白い刃が、燭台の炎を映して光る。
四つの封印が解けた聖剣は、廃砦のときよりもずっと強く、静かに輝いている。
「だから、僕も、勝つつもりで来ました」
リオは、足で床を固めた。
重心を前に。脇を締めて。
「それで、勝ったら」
リオの目が、俺を見た。
「約束どおり、ちゃんと、聞かせてください」
***
――約束。
マリネラの安宿で、リオが言った。
次に会うとき、先生がちゃんと元気になって、剣が持ち上がるようになってから。そのときに、ちゃんと聞かせてください、と。
今、剣は、持ち上がっている。
魔王の魔力で、黒鎧は力を取り戻している。
でも、答えはまだ、俺の中にはっきりとはなかった。
――いや。たぶん、ある。
ずっと前から、どこかにあった。ただ、言葉にするのが怖かっただけだ。
「……勝ったら、な」
それだけ言った。
「勝てなければ、お前は、何も聞けずに、ここで倒れる。最後の封印は解けず、魔王の前に立つこともできない」
大剣の切っ先を、リオに向ける。
「――来い、勇者」
リオの目に、もう迷いはなかった。
いや、迷いは、まだあるのだろう。迷ったまま、それでも来た。
――迷っている者だけが、相手の剣を、最後まで見る。
「行きます、先生」
リオが、床を蹴った。




