第69話 門の獣王
決戦の前の夜、俺は一人で中庭に出た。
月が、高かった。
魔王城の黒い尖塔の影が、中庭の砂の上に長く伸びている。配下たちは、もう眠っている時間だ。
大剣を、構える。
一、二、三。
振るたびに、ぶん、と風が鳴った。
魔王の魔力で満たされた黒鎧が、腕の動きに合わせて静かに脈を打っている。
――明日、リオが来る。
ミレイユから伝声貝で連絡があった。筆頭は俺だと、リオに伝えた、と。
『あの子、何も言わなかったわ。……今も、宿の裏で振ってる。数を数えながら』
――今も、どこかで、振っている。
四十、四十一、四十二。
***
百回を過ぎたころ、回廊の柱の陰で小さな影が動いた。
「……ギギか」
影が、びくりと跳ねた。
おずおずと、月明かりの中に出てくる。
丸眼鏡のゴブリンだった。
両手で木の剣を一本握りしめている。配下の子供たちが素振りの練習に使う、小さな木剣だ。
「も、申し訳ございません……! お邪魔をするつもりは……!」
「何をしている」
ギギは木剣を胸に抱きしめて、うつむいた。
「ギギも、一緒に、振らせていただけませんでしょうか。ヴァルガス様の大剣は、持ち上げられません。……でも、これなら」
ギギは、木剣を両手で構えた。
構えは、めちゃくちゃだった。
腰は引けて、重心は踵に乗って、脇は開いている。廃砦の、あの日のリオとそっくりだった。
(……重心が、踵や)
口に出そうとして、やめた。
代わりにギギの隣に立ち、大剣を構え直して並ぶ。
「振れ」
「は、はいっ!」
ギギが、木剣を振る。ひょろりと、頼りない音。
俺も、振る。ぶん、と重い音。
「一」
「い、いちっ!」
二人で、振った。
五十回を過ぎたころ、ギギの腕がぷるぷると震え始めた。
それでも、ギギはやめない。
「ご、ごじゅう、いちっ……!」
振るたびに、木剣の先が右に流れる。
振り下ろす瞬間に、右の肘が外に開いている。
――ブランシュの河原の、リオと同じだ。
「ギギ」
「は、はいっ……!」
「脇に、紙を一枚、挟んでいると思え。それを落とさないように振れ」
ギギはきょとんとした顔で、自分の脇を見下ろした。
ぎゅっと脇を締めて、振り下ろす。
ひゅん。
木剣の先が、まっすぐに落ちた。
「……あ」
ギギが、自分の木剣を見つめて固まった。
「まっすぐ……振れました……」
丸眼鏡の奥で、ギギの目がみるみるうちにうるんでいく。
「ギ、ギギは……生まれて初めて……剣を、まっすぐ……」
***
結局、九百回振った。
ギギは六百回を過ぎたあたりで、砂の上に座り込んだ。
それでも座ったまま、数だけは最後まで数えてくれた。
「……きゅうひゃく」
最後の一振りを終えて、大剣を下ろす。
中庭の砂の上に、汗がぽたぽたと落ちていく。
ギギが砂の上に座り込んだまま、俺を見上げていた。
「ヴァルガス様」
「なんだ」
「明日は……勝たれるのですか。それとも……」
ギギは、そこで言葉を切った。
――それとも、負けるのですか。
ギギは、全部を知っているわけではない。
それでも、俺が廃砦と白霧の神殿で負けて、勇者を勝たせてきたことは知っている。
「……ギギ」
「は、はい」
「俺は、明日、勝つつもりで戦う」
ギギの耳が、ぴくりと動いた。
「負けるつもりで戦ったら、それは、本気やない」
言いながら、自分の言葉に驚いている。
ずっと、本気で戦って本気で負ける、と考えていた。
でも、負けると決めて戦う限り、それは廃砦や白霧の神殿や、あの朝の中庭と何も変わらない。上手に負けるだけだ。
――本気というのは、勝つつもりで戦うことだ。
全力で勝ちにいって。それでも、負けたなら。
そのときは、本当に、あの子の勝ちだ。
「……それで、負けたら」
ギギが、小さな声で言った。
「それで負けたら、そのときは、勇者様が、本当にお強くなられた、ということでございますね」
思わず見ると、小さなゴブリンは砂の上に座ったまま、丸眼鏡を押し上げてこちらを見上げていた。
月明かりの中で、その目は少しも迷っていない。
「……ああ」
うなずいた。
「そういうことや」
ギギが、にっこりと笑う。
砂の上の木剣を、大事そうに拾い上げた。まっすぐ振れた、初めての木剣を。
「ギギは、明日、鐘楼から、見届けさせていただきます。白霧の神殿のときと、同じように」
「鐘は、鳴らさんでいい」
「はい。……でも、終わったら、鳴らしてもよろしいでしょうか」
少し考えてから、うなずいた。
「……ああ。終わったら、鳴らしてくれ」
どちらが勝っても。
***
夜明けの少し前、城門の前に大きな影が立っていた。
獅子の頭に、熊のような体。首からは、革紐で折れた獣の牙を一本下げている。
毛並みには、前よりも白いものが混じっていた。
「……ガルム」
「久しいな、ヴァルガス」
獅子の目は、ザハルを発つ朝と同じ、穏やかな金色をしている。
「魔王様から、便りがあった。勇者が、魔王城へ向かっていると。……古い友として、最後を見届けに来た」
ガルムは、城門の内側を振り返った。中庭のほうを。
「着いたのは、昨夜だ。中庭で、貴様がゴブリンと剣を振っていたのでな。声をかけそびれた」
(……見られとったんか、あれ)
ギギが砂の上に座り込んで、きゅうひゃく、と数えたところまで、全部。
ガルムは、それ以上は何も聞かなかった。
城門の脇の石に腰を下ろして、北の街道のほうへ黙って目をやる。
***
昼前、魔王城の城門の前に四つの人影が立った。
俺は城壁の上の物見の窓から、それを見下ろしていた。
先頭は、腰の聖剣を北の曇り空の下でも白く光らせている、金髪の少年だった。
その後ろに、白い法衣の少女。大きな斧を背負った男。杖を持った、三つ編みのエルフ。
リオは廃砦のときより、少しだけ背が伸びていた。
半年ほど前、震えながら俺の前に立った少年とは、別人のようだ。
――でも、立ち方は、同じだ。
重心が、つま先の付け根に乗っている。
剣を抜いていないのに、いつでも踏み込めるように。ブランシュのギルドで俺の立ち方を見て、リオが言ったのと同じ立ち方だった。
(……十点満点で、十点の立ち方や)
城門が、軋みながら開いた。
門の内側で、ガルムが腕を組んで待っていた。
リオが、足を止める。ボルドが、斧に手をかけた。ミレイユが、杖を構えかける。
「――待て」
ガルムの声が、城門の前に響く。
「我は、戦いに来たのではない。……久しいな、勇者」
「……ガルムさん」
リオの声に、安堵が混じった。
「お元気そうで、よかったです」
「貴様に、牙を折られてからな。砂漠の奥で、体を元に戻していた」
ガルムは、首から下げた牙の片割れを指で軽く弾いた。
「もう半分は、ザハルの玉座の上に飾ってある。獣王が負けを認めた証としてな。……民が、毎朝、拝んでいる」
リオが目を丸くして、照れたように笑った。
ガルムの声が、低くなる。
「勇者よ。この先に、魔王様がおられる。だが、その前に、もう一人、貴様が倒さねばならん者がいる」
「……知ってます」
リオは、ガルムを見上げた。
「五魔将の筆頭。……ヴァルガス先生ですよね」
物見の窓の陰で、息を止めた。
――先生。
ミレイユから、筆頭は俺だと聞いたはずだ。
魔王の命令で、本気で戦うと。それでもあの子は、先生と呼んだ。
「知っていて、来たのか」
「はい」
「迷いは、ないのか」
「あります」
リオは、即答した。
「すごく、あります。先生と、本気で戦うなんて、考えたこともなかったから。……昨日の夜も、ずっと迷ってました」
「それでも、来たのか」
「迷ったまま、来ました」
リオは、腰の聖剣の柄にそっと手を置いた。
「迷ってるから、来たんです。先生に、直接、聞かなきゃいけないことがあるから。……それに、約束したんです。次に会うとき、ちゃんと聞かせてくださいって」
ガルムは、しばらくリオを見下ろしていた。
それから、獅子の顔がふっと笑う。
「師と、同じことを言う」
「……え?」
「我が師も、魔王様と手合わせをする前の晩、言っていた。迷ったまま行く、とな。迷いのない者は、相手の剣を見ない。迷っている者だけが、相手の剣を、最後まで見る」
ガルムは腕を解いて、城門の脇に一歩下がった。
「――通れ、勇者。貴様らの相手は、我ではない」
ガルムの横を通り過ぎるとき、リオが足を止めた。
ガルムを見上げて、深く頭を下げる。
「ありがとうございます、ガルムさん」
「礼は、終わってから言え」
「それと、勇者。……あの男は、本気だぞ」
リオの肩が、ぴくりと動く。
「昨日の夜、中庭で、九百回、剣を振っていた。ゴブリンと一緒にな。……勝つつもりで戦う、と言っていた」
リオは、しばらく黙っていた。
それから顔を上げたリオの目は、まっすぐだった。
「……はい」
短い返事だったが、それで十分だった。
***
四人が、城の奥へ消えていく。
ガルムが、物見の窓のほうをちらりと見上げた。
目が合う。ガルムは何も言わずに、ほんの少しだけうなずいた。
――行け。
そう言われた気がした。
物見の窓から離れて、城壁の石段を降りる。
筆頭の間へ。城の東の塔の、最上階の、広い円形の部屋へ。
あの子も今、同じ塔の反対側の階段を上ってきているのだろう。
(……迷ったまま、来た、か)
俺も、同じだ。
ギギには、勝つつもりで戦うと言った。それでも、まだ迷っている。
――迷っている者だけが、相手の剣を、最後まで見る。
なら、それでいい。
最後まで、見てやる。あの子の剣を。




