第68話 【魔王視点】百年の帳
中庭から、剣を振る音が聞こえていた。
ぶん、ぶん、と。重くて、まっすぐな音。
黒鎧の魔将が、今夜も一人で振っているのだろう。
帳の奥から中庭は見えない。音だけが届く。
私は、目を閉じた。
目を閉じると、いつも同じ三つの場面が浮かんでくる。
***
北の小さな村の、祠の前。
十五の秋の、よく晴れた朝だった。
その月の掃除当番は、私だった。箒で落ち葉を掃いて、台座に刺さった古い剣の周りだけは、いつも丁寧に。
柄に積もった埃を指で払う。
――次の瞬間、剣は台座から抜けて、私の手の中にあった。
抜こうとしたわけではない。
ただ、するりと、収まったのだ。
村の大人たちは喜ぶより先に、困った顔を見合わせるばかり。
村の誰も、私に剣を教えてくれなかった。
王都から来た騎士は、私の素振りを三日見て、「筋がない」と言って帰ってしまった。
帰る前の晩に、一度だけ聞いた。どこが駄目なのですか、と。
騎士は肩をすくめただけ。答えは、とうとうもらえなかった。
だから、一人で振った。
祠の裏の誰もいない林で。重心がどこにあるのかも知らずに、毎朝、手の皮が剥けるまで。
――あの子と、同じだ。
帳の奥から、初めてあの子の名前を聞いたとき。
祠の掃除当番だったと聞いたとき。私は百年ぶりに、少しだけ笑った。
***
北の雪原で、氷の魔将と向き合った。
強い魔将だった。
氷の槍が、吹雪に混じって四方から降ってくる。それでも魔将は、最後まで氷の鎧を纏おうとはしない。
槍の切れ目を待って、懐へ飛び込む。
体ごと前へ。脇を締めて、一拍だけ、遅らせて。祠の裏の林で、手の皮を剥きながら一人で見つけた振り方。
聖剣が、魔将の額の氷冠を真っ二つに割る。
魔将は雪の上に膝をついた。白い首に、細い光の筋が浮かび上がる。
聖剣の痕。三日のうちに、命の根を焼き切る痕だ。
剣の振り方は教えてくれなかった王都の騎士たちが、それだけは教えてくれた。
魔将を倒したら、首に剣を当てて、痕が浮かぶのを見届けろ、と。
だから、切っ先を魔将の首に当てた。
魔将は、逃げなかった。
剣を当てられたまま、私を見上げている。
責める目ではなかった。何かを確かめるような目。
――ごめんなさい。
声に出したのかどうか、覚えていない。
視界が、滲んだ。
頬を伝ったものが顎から落ちて、魔将の白い首の上で小さく凍る。
「……泣いているのね」
魔将が、静かに言った。
「北の故郷に、娘が二人いるの。……帰らせてくれる?」
私は、剣を下ろした。
魔将は立ち上がって、雪の向こうへ歩いていく。
一度も振り返らない。白い背中は、すぐに吹雪に紛れて見えなくなった。
三日目の朝、二人の娘の手を握ったまま、雪が溶けるように消えた。
そう聞いたのは、次の町の宿でのことだ。
その夜、私は一晩じゅう泣いた。
泣いて、それでも、次の魔将を倒しに行った。
勇者だったから。
***
先代の魔王を討った夜のことも、今でも覚えている。
帳の奥にいたのは、私より少しだけ年上に見える、痩せた男だった。
剣を構えもせずに玉座の前に立って、私を待っていた。
男は、両手をゆっくりと広げた。
無防備に。まるで、斬られるために。
罠だと思った。だから、まっすぐに踏み込んだ。
聖剣が、魔王の胸を貫く。
魔王は、笑っていた。疲れたように、安心したように。
――やっと、終われる。
魔王はそう言って、聖剣を握る私の手に自分の手を重ねた。
次の瞬間、魔王の体から黒い何かが流れ出してきた。
その一瞬、玉座の間の高い窓の外で、夜空から色が抜けた。星も雲も、のっぺりとした灰色の平面になる。
黒いものは、重ねられた手を伝って、指から手首へ、腕へと這い上がってきた。
熱くて、冷たくて、重いもの。
振り払おうとしても、離れない。
黒いものは肘を越え、肩を越えて、私の胸の奥にすとんと落ちた。
窓の外に、星が戻った。
あれは、行き場を探していたのだと思う。受け取る者がいなければ、あの灰色はどこまで広がったのか。百年、考えないようにしてきた。
魔王の体が、灰のように崩れていく。
崩れる直前、その唇が小さく動いた。
――すまぬ。次は、そなただ。
その夜から、私は、魔王になった。
城の中は、しんと静まり返っていた。
五魔将は、もう一人もいない。旅の途中で、私が全員倒してきたのだから。
初めて帳の奥に座ったとき、玉座の肘掛けに細い傷がいくつも刻まれているのに気づいた。
爪で引っかいたような、古い傷。先代の魔王も、その前の魔王も、ここに座って同じように待っていたのだろう。
***
中庭の剣の音は、まだ続いている。
あの男は、勇者を殺さないように戦うのだろうか。
それとも、本気で、勝つつもりで戦うのだろうか。
どちらでもいい。
勇者が、ここへ来る。
あの子が、聖剣を持って、私の前に立つ。
百年、待ち続けた終わりが、やっと来る。
帳の奥で、私は肘掛けの古い傷を指先でなぞった。
百年のあいだに、そこには私の爪の傷もいくつか増えていた。




