第67話 【リオ視点】九百回
魔王領に入ってから、北の街道はずっと上り坂だった。
石畳が途切れて、踏み固められた土の道になる。道の両側の林は、北へ進むほど葉の色が黒っぽくなっていった。
先頭がボルドさん、真ん中がノエルとミレイユさん、いちばん後ろが僕。マリネラを出てから、ずっとこの順番だ。
後ろから歩いていると、みんなの重心が見える。
ボルドさんは、踵。でも、大きな斧を背負っているから、わざとそうしているんだと思う。ノエルは、つま先。怒っているときは、もっとつま先。ミレイユさんは、半分くらい杖。
先生に教わってから、人の足元ばかり見るようになった。
***
最後の宿場に着いたのは、日が傾き始めたころだった。
峠を一つ越えたところの、小さな宿場だ。宿の前に立つと、北の曇り空の下に、黒い尖塔がいくつも見えた。
「……あれが」
「魔王城ね。明日の昼前には、着くわ」
ミレイユさんの声は、いつもより短い。
宿のおかみさんは、腰の曲がったおばあさんだった。
魔王領の中にも、人の住む宿場がある。街道の行き来は、昔から絶えたことがないのだそうだ。
「あの、すみません」
部屋の鍵を受け取ってから、聞いた。
「宿の裏で、剣を振ってもいいですか」
おばあさんの手から、帳面がぱたりと落ちた。
「……剣を?」
「はい。素振りです」
「あんた、明日、あのお城へ行きなさる勇者様だろう」
「はい」
「その前の晩に、素振りかい」
「はい。毎晩なので」
おばあさんは、口を開けたまま僕の顔を見ていた。
それから黙って、裏口を指さす。薪置き場の横が空いているらしい。
後ろで、ノエルが額に手を当てていた。ボルドさんの肩が、小さく揺れている。
……何か、変なことを言っただろうか。
剣を振るのは、毎日やることなのに。
***
夕ごはんのあと、ミレイユさんの部屋に呼ばれた。
ノエルとボルドさんも、もう座っていた。
ミレイユさんは杖を膝に置いて、窓の外の黒い尖塔を見ている。
「リオ。……ずっと、言えなかったことがあるの」
ミレイユさんがこんなふうに言いよどむのを、初めて見た。
「何日も前に、あの人から伝声貝で頼まれていたの。あなたに伝えてくれって。……なのに、城が見えるところまで来て、やっと」
ミレイユさんが「あの人」と呼ぶのは、一人しかいない。
「五魔将の筆頭は、ヴァルガス。……あなたの先生よ」
――筆頭。
マリネラの広場で、ゼクスさんが群衆の前で言った。あなたの先生は、魔王軍五魔将の筆頭、と。
あれは、芝居だと思っていた。先生を悪者に見せるための。
「魔王の命令で、本気で戦うって。……魔王の魔力をもらって、黒鎧の力も戻ったそうよ」
――力が、戻った。
マリネラの宿で、先生は寝台の上にいた。大剣も持ち上げられなかった。
だから、僕は言ったのだ。先生がちゃんと元気になって、剣が持ち上がるようになってから、聞かせてください、と。
元気に、なったんだ。
――僕の、敵として。
「なによ、それ」
ノエルが立ち上がった。椅子が、がたんと鳴る。
「また一人で決めて、今度はリオと本気で戦うって――」
「ノエル」
ボルドさんが、低く呼んだ。ノエルは唇を噛んで、椅子に座り直す。
「あの人ね、こうも言ってたわ」
ミレイユさんが、僕を見た。翡翠色の目は、逸れない。
「迷うわよ、あの子、って私が言ったら。……迷えばいい。迷って、それでも来るなら、あいつは本当に強くなっている、って」
膝の上で、手を握る。
何か言おうとしたのに、言葉がどこにも見つからなかった。
***
宿の裏の薪置き場の横で、聖剣を抜いた。
月が、出ている。
北の空の黒い尖塔が、月明かりの中で、さっきより近く見える。
足で、地面を固める。重心を、前に。脇を、締めて。
「いち」
振る。
「に」
振る。
数えながら振るのは、ブランシュの河原からの癖だ。
百回振れと言われて、百回振った。次の日も、その次の日も。数えていないと、どこまで振ったのか分からなくなる。
――廃砦で、僕は先生の兜を割った。
それでも、先生は生きていた。
だから、明日も、きっと――。
そこから先を考えたら、剣先が揺れた。
「ひゃくご……」
数を、一つ飛ばしていた。
百四から、振り直す。
***
三百を過ぎたころ、二階の窓が小さく軋んだ。
見上げなくても分かる。ノエルだ。
マリネラを出てから、ノエルは毎晩、窓から僕の素振りを見ている。一度だけ「早く寝なさいよ」と言われたけれど、それきりだ。
隣の窓から、ミレイユさんの声が降ってきた。伝声貝で、誰かと話している。
「あの子、何も言わなかったわ。……今も、宿の裏で振ってる。数を数えながら」
誰と話しているのかは、聞かなくても分かった。
四百。四百一。
剣の音が、さっきより少しだけ重くなった気がした。
裏口の戸が開いて、ボルドさんが出てくる。
薪の山に腰を下ろして、斧の柄を膝に立てた。
「明日、どうする」
「……分かりません」
振る手は、止めない。
「勝ちたいです。先生に勝って、ちゃんと聞きたい。……でも、先生と戦うのは、怖いです」
「怖いか」
「すごく」
ボルドさんは、斧の柄に顎を乗せた。
「廃砦の前で、俺が言ったことを、覚えてるか」
「目だけは、閉じるな」
「それだけ覚えてりゃ、いい」
ボルドさんは腕を組んで、薪の山の上で目を閉じた。
……目、閉じてるじゃないですか。
言いかけて、やめた。たぶん、そういうことじゃない。
***
八百を過ぎると、腕が重くなってくる。
八百五十。八百八十。
九百が近づくと、いつも右の肘が開き始める。振り下ろす瞬間に、外へ。
河原で、先生に直してもらった癖だ。
開いたまま振っても、意味はない。
先生なら、きっとそう言う。だから、肘が開く前にやめることにしている。
「……きゅうひゃく」
聖剣を、下ろした。
息が、白い。汗で濡れた前髪が、額に貼りついている。
北の空の黒い尖塔を、見上げた。
あの城のどこかに、先生がいる。
今ごろ、先生も振っているのかもしれない。廃砦で僕を怒鳴ったときと同じ、重い音で。
迷っている。
たぶん、明日になっても、迷ったままだ。
それでも、行く。
――次に会うとき、ちゃんと、聞かせてください。
マリネラの宿で、先生は、約束だと言った。
聖剣を鞘に戻して、僕は手のひらの豆を握りしめた。




