第66話 敵になる日
白い手のひらの上の黒い光は、思っていたよりもずっと温かかった。
籠手の指先が触れた瞬間、光が腕を伝って流れ込んでくる。
肘へ、肩へ、胸へ。乾ききった井戸の底に、少しずつ水が満ちていくように。黒鎧の胸当てのひびが、内側から塞がっていく。
(……戻っとる)
ただ、ヴァルガスの魔力とは、手触りが違う。
冷たくて、静かで、どこか寂しい。一戦の間だけの、借り物の魔力だ。
「行け、ヴァルガス。勇者が来るまで、体を慣らしておけ」
帳の奥の声が、細くなっていた。
魔力を分け与えたぶん、魔王のほうが弱っているのではないか。そう思ったが、聞けなかった。
***
中庭で、黒い大剣の柄を両手で握った。
マリネラの安宿では、指一本分しか持ち上がらなかった剣だ。それが、するりと肩の高さまで上がる。
刃の軌跡を、極限まで細く、薄く。テストのときの、百分の一の力で。
黒い糸のような線が中庭を横切って、石柱に髪の毛ほどの傷を一本刻んだ。
(……撃てる)
「お、おみごとでございます……!」
回廊の柱の陰で、ギギがぱちぱちと手を叩いていた。
帳面を胸に抱えている。たまたま通りかかった、という顔ではない。
***
没座標の森に戻ると、セレスが倒木に腰かけて待っていた。
隣に腰を下ろして、全部、話した。
魔王の魔力のこと。最後の封印のこと。筆頭は俺で、勇者と本気で戦えと言われたこと。
「……本気で、戦うのね。あの子が、勝てなかったら?」
「それは、あいつの剣が、まだ足りなかったということだ」
自分で言いながら、胸が冷えた。
「やめて」
セレスは、暗い森を見つめたまま言った。
「あの子が勝っても、勝てなくても、同じことよ。……廃砦で、あなたの首に痕がなかったのは、本当には討たれていなかったからでしょう。本気で負けたら、聖剣の光は、首まで届くわ」
白い指先が、外套の裾を握りしめている。
「母の首にも、届いた。白い筋が浮かんで、三日目の朝に、消えた。私とリュシーの手を握ったまま」
設定資料集の最後のページに、一行だけあった話だ。
その手を握られていた娘が、今、隣に座っている。
「……それやと、最後の封印が解けへん」
「解けなくていい」
「リオが、魔王の前に立てへん。魔王は、また百年、待つことになる」
「それでも、よ」
セレスが、ようやくこちらを向いた。青い目は、少しも揺れていない。
「私は、あれを、もう一度見るのは嫌」
「……それでも、行く」
セレスは、しばらく俺の兜を見ていた。
それから立ち上がって、外套の裾を払う。
「勝手にして」
銀色の髪が、木々の暗がりにすぐ見えなくなった。
倒木の、セレスが座っていたところに、薄く霜が残っている。
***
翌日、伝声貝でミレイユを呼んだ。
「広場でゼクスが言ったことは、本当だった。……筆頭は俺だと、リオに伝えてくれ。魔王の命令で、本気で戦うと」
『……迷うわよ、あの子』
「迷えばいい。迷って、それでも来るなら、あいつは、本当に強くなっている」
伝声貝の向こうで、息を吐く音がした。
『分かったわ。……あなた、もう、黒騎士として会いに行けないのね』
――そうだ。
ブランシュの河原で稽古をつけた黒騎士。ザハルで、負けを認めろと言った黒騎士。次にリオの前に立つのは、魔王軍五魔将筆頭、黒鎧のヴァルガスだ。
『……寂しいわね。私も、ちょっとだけ、あの黒騎士さんのこと、気に入ってたのよ』
伝声貝の光が、ふっと消えた。
***
数日後の夜、ギギが帳面を抱えて部屋を訪ねてきた。
「勇者一行は、北の街道を、一日およそ五里。十日後の昼前には、城門に着くかと。……それと、宿場町で、宿の者に、剣の素振りによい場所はないかと尋ねていたそうでございます。九百回、振っていたと」
九百回。
魔王城の配下たちの、朝の素振りの回数。俺が千回から百回減らした数だ。
たまたま、九百回でやめただけかもしれない。
それでも、胸の奥の固くなっていた場所が、少しだけほどけた。
「ギギ。明日の朝の素振り、俺も出る」
「ヴァ、ヴァルガス様が、配下と一緒に……!?」
ギギは帳面を抱えて、転がるように部屋を出ていった。
(……敵になる日まで、あと十日か)
***
翌朝の中庭は、骨と牙と鱗で、ぎっしりだった。
鐘楼の下で、ギギが数を読み上げる。九百回を振り終えたところで、小さなスケルトンが木剣を抱えて前に出てきた。
配下の子供だ。骨の膝が、かたかたと鳴っている。
「ひ、ひっとうさま! て、手合わせを……!」
子供用の木剣を借りて、向き合う。相手の重心が、踵に乗っているのが見えた。
(……右に流れる。三振り目で、打たせたればええ)
一振り目を受けさせる。二振り目を、わざと大きく外す。
三振り目で、こつん、と小さな木剣が籠手に当たった。
「……見事だ」
片膝をつくと、中庭じゅうからどっと歓声が上がる。小さなスケルトンが、顎の骨を鳴らして跳ねていた。
拍手の中で、自分の手を見下ろす。
重心を見て、流れる向きを読んで、打たせる場所を選んだ。体が、勝手にやっていた。廃砦の日から、ずっとやってきたことだ。
(……これが、最後の、上手な負けや)
なぜ最後なのかは、まだうまく言葉にならなかった。
***
没座標の森に客が来たのは、決戦の五日前の夜だった。
焚き火の前で、セレスがリュシーの髪を結っていた。左右の高さが、やっぱり少しだけ違う。
(……百年やっても、上手にはならんもんやな)
「何か言った?」
「何も言っていない」
森で背を向けられた夜から、セレスと交わした言葉は、これでほとんど全部だ。
暗がりから、こつ、こつ、と靴音が近づいてくる。
ボツが低く唸った。セレスが、リュシーを背中にかばって立ち上がる。
「――こんばんは。夜分に、失礼します」
ゼクスだった。
片眼鏡は、ない。マリネラの海の底で流されて、それきりなのだろう。
柔和な笑みも消えていた。代わりにあるのは、ひどく疲れた、どこにでもいる男の顔だ。
ゼクスは焚き火の反対側の倒木に腰を下ろし、リュシーを見て目を伏せた。
「……あのときは、すみませんでした」
リュシーは答えずに、姉の外套をぎゅっと握りしめた。
「本当は、書きたかった結末が、別にあったんです」
ザハルの宿の裏庭で、ミレイユが言っていた。古い文献の、五つ目の封印の欄にだけ、一語。
「……五つ目の、『断つ』か」
ゼクスが顔を上げた。知っているとは、思っていなかったのだろう。
「ええ。あれは、私が書いた欄です。勇者が、魔王を斬らずに勝つための。……でも、私には、書けなかった。何度書いても、嘘になった」
焚き火が、ぱちりと爆ぜる。
「斬る者がいなければ、魔王は、誰にも斬られないまま待ち続けます。世界は、滅びもせずに、ゆっくりと終わっていく。……それが、私の書いた最初の版です」
膝の上で、ゼクスの両手が固く握り合わされる。
「勇者くんが、海の底で私を助けたとき、分かったんです。……あの子なら、書けるかもしれない、と」
(……書くんやない。あいつは、振るんや)
九百回。今夜も、どこかの宿の裏で、あの子は振っているのだろう。
「……書けなかったの?」
リュシーだった。姉の外套の陰から、半分だけ顔を出している。
「ええ。何度書いても」
「お姉ちゃんも、髪を結うの、下手だよ。百年やってるのに。……でも、毎朝、結んでくれる」
セレスの指先から、冷気がひとすじ漂った。焚き火の炎が、小さく縮こまる。
左右の高さの違う結び目が、外套の陰で揺れている。
ゼクスは、しばらくその結び目を見ていた。それから、この夜初めて笑った。
「……そうですか」
ゼクスは立ち上がって、礼服の裾の枯れ葉を払った。
靴音が、暗がりの中へ遠ざかっていく。
「――結末は、まだ、書いていません」
最後に、それだけが聞こえた。
***
セレスが、俺の隣の倒木にゆっくりと腰を下ろした。
顔が、青白い。膝の上で、白い指先が外套の裾を握ってはほどいている。
俺は、焚き火を見つめていた。
帳の隙間から差し出された、細くて小さな白い手。
――そのとき、我を斬った者が、どう。
ガルムを救ったと報告した日に、帳の奥の声が言いかけてやめた言葉だ。
誰にも斬られないまま、待ち続ける。
なら、帳の奥の人が百年待っているのは、斬られる日なのではないか。
その先を、俺は考えるのをやめた。




