第65話 筆頭の席
魔王城に戻ったのは、それから十日後だった。
黒鎧は、着られるようになっていた。
着られる、というだけだ。魔力のない鉄の鎧は、ただ重く、肩と腰にのしかかってくる。大剣は、ボツの背中に縛りつけて運んだ。
セレスは、没座標の森でボツから降りた。
森の入口で、リュシーが、姉の腰に飛びついてくる。その後ろで、ギギが、俺の顔を見るなり帳面を取り落とした。
「ヴァルガス様……! お痩せに、なられて……!」
「痩せてはいない」
「お顔が、お疲れで……!」
「……それは、そうかもしれん」
ギギは、泣きながら、俺の籠手にしがみついた。
リュシーが姉の腰から離れて、俺の前に来る。
魔力の抜けた籠手に、小さな手でそっと触れて、俺の顔をじっと見上げる。
「鎧、冷たくなっちゃったね」
「……ああ」
「でも、平気だよ。あったかい人があったかいのは、鎧のせいじゃないもん」
氷の柱から助け出したときも、この子は冷たい黒鉄の鎧の腕の中で、あったかい、と言った。
リュシーは、にっこりと笑った。
***
玉座の間に呼ばれたのは、その夜だった。
首のない騎士が、脇に抱えた兜の中から俺の名前を呼ぶ。
何度目だろう。この廊下を、この騎士の後ろについて歩くのは。
玉座の間には、誰もいなかった。
ゼクスの姿は、もちろんない。
マリネラの海の上で消えてから、魔王城には一度も戻ってきていないらしい。
黒い柱のあいだを、帳の前まで歩く。
片膝をつくと、魔力のない黒鎧がぎしりと鳴った。
「――ヴァルガス」
帳の奥から、あの声がした。
「海魔将が、討たれた」
「……は」
「ゼクスは、戻らぬ。……おそらく、二度と」
帳の奥は、しばらく静かだった。
「五魔将のうち、四人が、勇者に討たれた。黒鎧のヴァルガス。氷のセレス。獣王ガルム。海魔将ゼクス」
一人ずつ、名前を呼んでいく。
「そのうち、三人は、生きている。……お前と、セレスと、ガルムは」
――知っている。
この声は、全部、知っている。
セレスが生きていることも。俺が何をしてきたのかも。
いや、もしかしたら、最初から。
「ヴァルガス。最後の封印のことを、話しておく」
帳が、かすかに揺れた。
「聖剣の封印は、五つ。五魔将を、一人ずつ倒すたびに、一つずつ解ける。……四つは、もう、解けた」
「……は」
「最後の一つは、五魔将の筆頭を倒さなければ、解けぬ」
五魔将の、筆頭。
灯籠祭りのあと、この帳の前で一度だけ聞いた言葉だ。
――まだ、筆頭の席には、遠いな。
原作では、名前だけが語られる存在だった。
最終章の直前に、魔王の口からただ一言。――我が筆頭が、お前を待つ、と。
その筆頭の顔を、俺はテストのデータでも見たことがない。
データそのものが、なかったのかもしれない。
――あなたの先生は、魔王軍五魔将の筆頭。
マリネラの広場でゼクスが群衆に聞かせた声が、耳の奥でよみがえる。
芝居だと、打ち消したはずの言葉だ。
「筆頭とは……」
声が、かすれた。
「筆頭とは、どなたのことでございますか」
帳の奥で、小さく息が漏れた。
笑ったのだと、今度はすぐに分かる。
「――お前だ、ヴァルガス」
***
玉座の間が、しんと静まり返った。
「黒鎧のヴァルガス。百年以上、魔王軍の先陣に立ってきた男。五魔将の中で、最も強く、最も古い魔将。……筆頭の席は、最初から、お前のものだ」
あれは、芝居では、なかったのか。
原作の設定資料のどこにも、そんなことは書いていなかった。
ヴァルガスは、チュートリアルの中ボスだった。十五分で倒される、ただの通過点。
――いや。
ゼクスが言っていた。原作の最初の版は、切り刻まれて継ぎ足された、と。
最初の版を書いたあの男は、広場で知っていることをそのまま口にしただけだった。
チュートリアルで倒される中ボスが、本来は五魔将の筆頭だったとしたら。
最初に倒されて、最後にもう一度、勇者の前に立つ。そういう筋書きが、最初の版にはあったのかもしれない。
「……我は、すでに一度、勇者に倒されております」
「兜を割られた。だが、お前は、討たれてはいない」
帳の奥の声が、静かに言った。
「セレスが見抜いたとおりだ。お前の首には、聖剣の痕がない。……廃砦で、お前は、討たれたふりをしただけだ」
息を、呑んだ。
「最後の封印は、筆頭が、本当に討たれたときに解ける。ふりではなく。……勇者と、本気で戦い、本気で負けたときに」
***
本気で、戦う。
廃砦では、手加減した。
白霧の神殿では、氷の巨人の中で、上手に負けた。
――本気で戦って、本気で負ける。
俺は、自分の手を見下ろした。
ひびだらけの、魔力のない籠手。
大剣を持ち上げることすら、まだできない。
「……今の我には、本気で戦う力が、ございません」
正直に言った。
「海の底で、すべての魔力を使い果たしました。今の我は、勇者の前に立っても、ただの的にしかなりませぬ」
「知っている」
帳の奥の声は、少しも驚いていなかった。
「だから、戻す」
「……は?」
「お前の魔力を、我が戻す」
帳が、揺れる。
帳の隙間から、白い手が一本だけ差し出された。
細くて、若い手だった。思っていたよりも、ずっと小さな手。
その手のひらの上に、黒い光が静かに渦を巻いていた。
「魔王の魔力を、分け与える。黒鎧は、再び力を取り戻す。……黒閃も、撃てるようになる。ただし、この一戦の間だけだ」
帳の奥の声は、淡々としていた。
「勇者との一戦が終われば、勝っても負けても、この魔力は我に還る。……お前が海の底で捨てたものは、戻らぬ」
「……なぜ」
思わず、聞き返す。
「なぜ、そこまで」
帳の奥は、しばらく何も答えなかった。
それから、静かな声が聞こえた。
「勇者は、最後に、我の前に立つ」
白い手のひらの上で、黒い光が回っている。
「その前に、お前と戦わねばならぬ。……本気のお前と。手加減も、ふりもない、五魔将筆頭のお前と」
帳の奥の声が、少しだけ柔らかくなった。
「そうでなければ、あの子は、我の前に立てるほど、強くはなれぬ」
――あの子。魔王が、勇者をそう呼んだ。
「受け取れ、ヴァルガス」
白い手が、俺の前に差し出されていた。
「そして、勇者と、本気で戦え。……お前が、ずっと教えてきた弟子と」
俺は、白い手を見つめている。
次に会うとき、と、リオは言った。
先生が、ちゃんと元気になって、剣が持ち上がるようになってから、と。
――次に会うときは、敵として。
本気の、五魔将筆頭として。
俺は、ゆっくりと手を伸ばした。
ひびだらけの籠手が、白い手のひらの上の、黒い光に触れた。
(第4章 作者の負け方 完)




