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勇者に倒されるチュートリアルの中ボスに転生したので、毎回ちゃんと負けてあげます ~死んだはずの俺、正体を隠して勇者に剣を教えています~  作者: おはぎだんご
第4章 作者の負け方

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第64話 去っていく背中

 大剣が、持ち上がらなかった。


 マリネラの安宿の、狭い部屋。

 壁に立てかけた黒い大剣の柄を両手で握って、もう一度力を込めた。


 腕が、震える。

 刃の先が、床から指一本分だけ浮き上がる。


 そこで、止まった。


「……ふ、ぐ……っ」


 手を離すと、大剣はごとんと音を立てて床に倒れた。


 身の丈ほどもある、黒い大剣。

 ついこのあいだまで片手で振り回して、ヒュドラを両断し、獣王の牙を受け止めていた剣だ。


 ――今は、持ち上げることすらできない。


「無理しないで」


 寝台の横の椅子で、セレスが言った。

 膝の上で、溶けかけた氷の粒を指先で転がしている。


「魔力を、全部使い切ったのよ。黒鎧に溜め込まれていた分まで、一滴残らず。……普通なら、死んでいてもおかしくないわ」

「……死んでへん」

「だから、無理しないでって言ってるの」


 セレスは、氷の粒を俺の額に乗せた。


 ひんやりとした。黒鎧の籠手を外した手で、額の氷に触れる。冷たくて、気持ちよかった。


***


 黒鎧は、部屋の隅に脱いで置いてある。


 脱げた。

 前は脱げなかったのに。魔将の力そのものと結びついていて、脱げばただの大柄な男になってしまうと思っていた。


 今は、力がないから、脱げる。

 脱いでも何も変わらない。もう、ただの大柄な男だから。


 ひびだらけの胸当て。光沢を失った籠手。

 部屋の隅で、ただの黒い鉄の塊として積み重なっていた。


「……これで、ただの中ボスやな」


 思わず、呟いていた。


 セレスが、氷の粒を転がす手を止める。


「……中ボスに、ただの、なんてあるの?」

「あるやろ。チュートリアルで十五分で倒される、ただの中ボス」

「あなたは、ただの中ボスじゃないわ」


 セレスは、それだけ言って、ふいっと目をそらした。

 頬が、ほんの少し赤くなっている気がする。氷の一族の頬が赤くなるところなど、これまで一度も見たことがない。


 窓の外で、港の氷の壁が少しずつ溶け始めていた。


「前の世界では、誰も、俺の報告書を読まなかった」


 気づけば、口に出していた。

 会社の床の、冷たさを思い出す。


「ここでは、違う。……俺が何かすると、誰かが、ちゃんと見てくれる」


 セレスは何も言わずに、額の上の溶けかけた氷を新しいものに取り替えた。

 溶けるたびに、黙ってまた取り替える。三日のあいだ、ずっとそうだった。


***


 リオが訪ねてきたのは、三日目の夕方だった。


 部屋の扉を、小さく叩く音。

 セレスが扉を開けると、金髪の少年が廊下に立っていた。


「……こんばんは」


 リオはセレスに頭を下げて、寝台の上の俺を見た。


 黒鎧を着ていない俺を見るのは、初めてのはずだ。

 ただの大柄な男が、寝間着のまま寝台の上に座っている。部屋の隅には、ひびだらけの黒い鉄の塊が積み重なっている。


 リオの目が、その鉄の塊に一瞬だけ止まった。


「少し、二人で、話せますか」


 セレスが俺を見る。俺がうなずくと、セレスは黙って部屋を出ていった。扉を閉める前に、一度だけリオの頭に手を置いて。


***


 リオは、寝台の横の椅子に腰を下ろした。


 さっきまでセレスが座っていた椅子だ。

 背もたれに、まだ少しだけ冷気が残っている。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。窓の外では夕暮れの海が橙色に光っていて、港の氷の壁は、もうほとんど溶けてしまっている。


「……明日、マリネラを出ます」


 リオが、言った。


「聖剣が、教えてくれたんです。最後の封印の場所。……魔王城です」


 ――魔王城。


 原作の最終章の舞台。五魔将の筆頭が待つ場所。


「そうか」

「ボルドさんも、ノエルも、ミレイユさんも、一緒に来てくれます。……ノエルは、まだ、少し怒ってますけど」


 リオは、膝の上で両手を握り合わせていた。


「ボルドさんとミレイユさんのことは、もう、怒ってません。二人とも、僕が自分で決められるように、黙っててくれたんだって、分かったから」


 窓の外で、海鳥が鳴く。


「でも」


 リオの声が、硬くなった。


「先生のことは、まだ、怒ってます」

「……ああ」


 それしか、言えなかった。


「海の底で、先生が、何をしたのか。ミレイユさんに、教えてもらいました」


 リオは、部屋の隅の黒い鉄の塊に目をやる。


「あの人の力を止めるために、先生の力を、全部使ったって。……もう、剣も持ち上げられないって」

「……」

「僕が、あの人に何度も負けて、膝をついてたから。先生が、出てきて」


 リオの肩が、小さく震えた。


「ありがとうございました」


 リオは椅子の上で、深く頭を下げる。


「海の底で、助けてくれたことは。……本当に、ありがとうございました」


 顔を上げたリオの目は、赤かった。

 でも、泣いてはいない。


「でも、まだ、許せません」


 まっすぐな声。


「廃砦のことも、ヒュドラのことも、氷の巨人のことも。先生が、僕に何も言わずに、全部、一人で決めてたこと。……僕が、勇者だって褒められてるのを、黙って見てたこと」


 リオは、膝の上で拳を握りしめた。


 ――今だ。


 この三日間、寝台の上で、言う順番を考えてきた。

 どこから話して、どこで止まらずに、最後まで言い切るか。天井を見上げながら何度も並べ直した。


「リオ。桟橋の続きを、言わせてくれ」


 リオが、顔を上げる。


 これで二度目だ。桟橋では違うとだけ言って、その先を言えなかった。

 今度こそ。


「……俺は――」

「今は、いいです」


 リオが、俺の言葉を遮る。

 驚いて見ると、リオは小さく、でもはっきりと首を横に振っていた。


「桟橋で、聞いたのに。……誰でもよかったわけじゃないって、言ってくれたのに。その先は、答えてくれなかった。だから、ずっと、聞きたかったんです」

「なら――」

「でも、今は、聞きません。先生、今、すごく弱ってるから。……弱ってるときに、無理やり言わせたくないんです」


 リオは、赤い目のまま唇の端を噛んで、笑っていた。


「だから、次に会うとき。……先生が、ちゃんと元気になって、剣が持ち上がるようになってから。そのときに、ちゃんと、聞かせてください」


 言葉が、出てこなかった。


 この子は。

 怒っているのに。許せないと言いながら。


 それでも、俺のために、待つと言っている。


「……分かった」


 ようやく、それだけ言えた。


「次に会うときに、言う。必ず」

「約束ですよ」

「約束だ」


***


 リオは椅子から立ち上がり、扉のほうへ歩きかけて、ふと、足を止めた。

 懐から取り出したのは、黒い金属のかけら。

 廃砦の帰り道で拾った、兜のかけら。


 リオはそれを手のひらの上で、しばらく見つめていた。


「これ、返そうかと思ったんですけど」


 リオは、かけらをぎゅっと握りしめる。


「やっぱり、まだ、返しません」


 そう言って、また懐にしまった。


「次に会うときに、返します。……先生の答えを、聞いてから」


 リオは、扉を開けて廊下に出ると、振り返らずに言った。


「おやすみなさい、先生」


 ――先生。


 桟橋で、もう呼べないと言った呼び方。


 扉が、静かに閉まった。


 足音が、廊下を遠ざかっていく。

 階段を降りて、宿の扉を開けて、夕暮れの通りへ。


 窓から通りを見下ろすと、金髪の少年が、灯台へ続く坂道を一人で歩いていく。

 夕日を背に受けて、長い影を引きずりながら。


 背中が、小さく見えた。

 でも、廃砦で震えていた少年の背中とは、まるで違う。


(……次に会うとき、か)


 窓枠を握る手に、力がこもった。

 ――力がこもる、ほどの力も、まだ戻っていなかったけれど。


 坂道の上で、リオの背中が、灯台の影の中に消えていった。


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