第64話 去っていく背中
大剣が、持ち上がらなかった。
マリネラの安宿の、狭い部屋。
壁に立てかけた黒い大剣の柄を両手で握って、もう一度力を込めた。
腕が、震える。
刃の先が、床から指一本分だけ浮き上がる。
そこで、止まった。
「……ふ、ぐ……っ」
手を離すと、大剣はごとんと音を立てて床に倒れた。
身の丈ほどもある、黒い大剣。
ついこのあいだまで片手で振り回して、ヒュドラを両断し、獣王の牙を受け止めていた剣だ。
――今は、持ち上げることすらできない。
「無理しないで」
寝台の横の椅子で、セレスが言った。
膝の上で、溶けかけた氷の粒を指先で転がしている。
「魔力を、全部使い切ったのよ。黒鎧に溜め込まれていた分まで、一滴残らず。……普通なら、死んでいてもおかしくないわ」
「……死んでへん」
「だから、無理しないでって言ってるの」
セレスは、氷の粒を俺の額に乗せた。
ひんやりとした。黒鎧の籠手を外した手で、額の氷に触れる。冷たくて、気持ちよかった。
***
黒鎧は、部屋の隅に脱いで置いてある。
脱げた。
前は脱げなかったのに。魔将の力そのものと結びついていて、脱げばただの大柄な男になってしまうと思っていた。
今は、力がないから、脱げる。
脱いでも何も変わらない。もう、ただの大柄な男だから。
ひびだらけの胸当て。光沢を失った籠手。
部屋の隅で、ただの黒い鉄の塊として積み重なっていた。
「……これで、ただの中ボスやな」
思わず、呟いていた。
セレスが、氷の粒を転がす手を止める。
「……中ボスに、ただの、なんてあるの?」
「あるやろ。チュートリアルで十五分で倒される、ただの中ボス」
「あなたは、ただの中ボスじゃないわ」
セレスは、それだけ言って、ふいっと目をそらした。
頬が、ほんの少し赤くなっている気がする。氷の一族の頬が赤くなるところなど、これまで一度も見たことがない。
窓の外で、港の氷の壁が少しずつ溶け始めていた。
「前の世界では、誰も、俺の報告書を読まなかった」
気づけば、口に出していた。
会社の床の、冷たさを思い出す。
「ここでは、違う。……俺が何かすると、誰かが、ちゃんと見てくれる」
セレスは何も言わずに、額の上の溶けかけた氷を新しいものに取り替えた。
溶けるたびに、黙ってまた取り替える。三日のあいだ、ずっとそうだった。
***
リオが訪ねてきたのは、三日目の夕方だった。
部屋の扉を、小さく叩く音。
セレスが扉を開けると、金髪の少年が廊下に立っていた。
「……こんばんは」
リオはセレスに頭を下げて、寝台の上の俺を見た。
黒鎧を着ていない俺を見るのは、初めてのはずだ。
ただの大柄な男が、寝間着のまま寝台の上に座っている。部屋の隅には、ひびだらけの黒い鉄の塊が積み重なっている。
リオの目が、その鉄の塊に一瞬だけ止まった。
「少し、二人で、話せますか」
セレスが俺を見る。俺がうなずくと、セレスは黙って部屋を出ていった。扉を閉める前に、一度だけリオの頭に手を置いて。
***
リオは、寝台の横の椅子に腰を下ろした。
さっきまでセレスが座っていた椅子だ。
背もたれに、まだ少しだけ冷気が残っている。
しばらく、どちらも何も言わなかった。窓の外では夕暮れの海が橙色に光っていて、港の氷の壁は、もうほとんど溶けてしまっている。
「……明日、マリネラを出ます」
リオが、言った。
「聖剣が、教えてくれたんです。最後の封印の場所。……魔王城です」
――魔王城。
原作の最終章の舞台。五魔将の筆頭が待つ場所。
「そうか」
「ボルドさんも、ノエルも、ミレイユさんも、一緒に来てくれます。……ノエルは、まだ、少し怒ってますけど」
リオは、膝の上で両手を握り合わせていた。
「ボルドさんとミレイユさんのことは、もう、怒ってません。二人とも、僕が自分で決められるように、黙っててくれたんだって、分かったから」
窓の外で、海鳥が鳴く。
「でも」
リオの声が、硬くなった。
「先生のことは、まだ、怒ってます」
「……ああ」
それしか、言えなかった。
「海の底で、先生が、何をしたのか。ミレイユさんに、教えてもらいました」
リオは、部屋の隅の黒い鉄の塊に目をやる。
「あの人の力を止めるために、先生の力を、全部使ったって。……もう、剣も持ち上げられないって」
「……」
「僕が、あの人に何度も負けて、膝をついてたから。先生が、出てきて」
リオの肩が、小さく震えた。
「ありがとうございました」
リオは椅子の上で、深く頭を下げる。
「海の底で、助けてくれたことは。……本当に、ありがとうございました」
顔を上げたリオの目は、赤かった。
でも、泣いてはいない。
「でも、まだ、許せません」
まっすぐな声。
「廃砦のことも、ヒュドラのことも、氷の巨人のことも。先生が、僕に何も言わずに、全部、一人で決めてたこと。……僕が、勇者だって褒められてるのを、黙って見てたこと」
リオは、膝の上で拳を握りしめた。
――今だ。
この三日間、寝台の上で、言う順番を考えてきた。
どこから話して、どこで止まらずに、最後まで言い切るか。天井を見上げながら何度も並べ直した。
「リオ。桟橋の続きを、言わせてくれ」
リオが、顔を上げる。
これで二度目だ。桟橋では違うとだけ言って、その先を言えなかった。
今度こそ。
「……俺は――」
「今は、いいです」
リオが、俺の言葉を遮る。
驚いて見ると、リオは小さく、でもはっきりと首を横に振っていた。
「桟橋で、聞いたのに。……誰でもよかったわけじゃないって、言ってくれたのに。その先は、答えてくれなかった。だから、ずっと、聞きたかったんです」
「なら――」
「でも、今は、聞きません。先生、今、すごく弱ってるから。……弱ってるときに、無理やり言わせたくないんです」
リオは、赤い目のまま唇の端を噛んで、笑っていた。
「だから、次に会うとき。……先生が、ちゃんと元気になって、剣が持ち上がるようになってから。そのときに、ちゃんと、聞かせてください」
言葉が、出てこなかった。
この子は。
怒っているのに。許せないと言いながら。
それでも、俺のために、待つと言っている。
「……分かった」
ようやく、それだけ言えた。
「次に会うときに、言う。必ず」
「約束ですよ」
「約束だ」
***
リオは椅子から立ち上がり、扉のほうへ歩きかけて、ふと、足を止めた。
懐から取り出したのは、黒い金属のかけら。
廃砦の帰り道で拾った、兜のかけら。
リオはそれを手のひらの上で、しばらく見つめていた。
「これ、返そうかと思ったんですけど」
リオは、かけらをぎゅっと握りしめる。
「やっぱり、まだ、返しません」
そう言って、また懐にしまった。
「次に会うときに、返します。……先生の答えを、聞いてから」
リオは、扉を開けて廊下に出ると、振り返らずに言った。
「おやすみなさい、先生」
――先生。
桟橋で、もう呼べないと言った呼び方。
扉が、静かに閉まった。
足音が、廊下を遠ざかっていく。
階段を降りて、宿の扉を開けて、夕暮れの通りへ。
窓から通りを見下ろすと、金髪の少年が、灯台へ続く坂道を一人で歩いていく。
夕日を背に受けて、長い影を引きずりながら。
背中が、小さく見えた。
でも、廃砦で震えていた少年の背中とは、まるで違う。
(……次に会うとき、か)
窓枠を握る手に、力がこもった。
――力がこもる、ほどの力も、まだ戻っていなかったけれど。
坂道の上で、リオの背中が、灯台の影の中に消えていった。




