第63話 作者の退場
氷の泡が、海面を割って、朝の光の中に浮かび上がった。
海の底の白い光とは違う、本物の太陽の光が、目を開けていられないほどまぶしかった。
泡が、凍った海の上に降り立つ。
セレスが手を下ろすと、泡は音もなく溶けて消えた。
港の入り江を塞いでいた氷の壁は、まだ、そこに立っていた。
その向こうで、マリネラの白い家々が、朝日を浴びて光っている。
足の下の渦は、もう、なくなっていた。
ただの冷たい海が、凍った表面の下で、静かに揺れているだけだ。
「……終わった、の?」
ノエルが、氷の上にへたり込んだまま、呟いた。
「終わったわ」
ミレイユが、杖に寄りかかって答える。
三つ編みの先から、海水がぽたぽたと滴っていた。
ボルドは、斧を氷の上に突き立てて、大きく息を吐いた。
リオの頭を、大きな手でぐしゃりと撫でる。
リオは、されるままになっていた。
***
ゼクスは、氷の上に、仰向けに倒れていた。
黒い礼服は、海水でずぶ濡れになり、ところどころ破れている。
片眼鏡のない顔は、思っていたよりもずっと若く見えた。疲れた、三十代の、どこにでもいる男の顔。
俺は、ゼクスの横に、膝をついた。
立っているだけで、膝が笑う。魔力を失った黒鎧が、ひどく重い。
「……生きているか」
「ええ。おかげさまで」
ゼクスは、空を見上げたまま答えた。
「勇者くんに、助けられてしまいました。……私を、殺そうとした男を」
「あいつは、そういう奴だ」
「知っています。……いえ、知りませんでした。今日、初めて知りました」
ゼクスは、ゆっくりと上体を起こした。
咳き込んで海水を吐いてから、リオのほうを見た。
リオは少し離れた氷の上で、ボルドに頭を撫でられたまま、こちらを見ている。
警戒している目ではなかった。ただ、ゼクスを見ている。
「……勇者くん」
ゼクスが、声をかけた。
「さっきは、ありがとうございました」
リオは、驚いた顔をした。
それから、小さく頭を下げる。
ゼクスは、ふっと笑った。
いつもの柔和な笑みとは違う、少しだけ、照れたような笑み。
「負けを認めるというのは、思っていたより、悪くない気分ですね」
***
ゼクスは立ち上がると、ずぶ濡れの礼服の裾を払った。
破れた胸元の隠しは、空っぽだった。白い栞は、海の底に沈んだままだ。
「さて。私は、そろそろ退場します」
「……逃げるのか」
「ええ。負けた中ボスは、退場するものでしょう? あなたも、何度もそうしてきたじゃないですか」
ゼクスは、懐から、一枚の紙を取り出した。
黒い紙。参謀の紋。転移の札だ。
「海の底では使えませんでしたけどね。改稿の宮殿の中では、ほかの力は全部、書き換えられてしまうので」
札を、指先でつまむ。
握り潰す前に、ゼクスは、俺を見下ろす。
「デバッガーくん」
「……なんだ」
「あなたの報告書、読んでおけばよかった」
ゼクスの声は、静かだった。
「改稿の弱点だけじゃない。……ほかの報告書も。あなたは、私の書いた物語の、どこが壊れているのかを、ずっと見ていた人だったんですね」
答えなかった。
発売前の、何百枚もの報告書。
会社の床で、天井の染みを数えながら書いた文面。誰にも読まれないまま、積み上がっていった紙の山。
――この男は、その一枚を、読まずに捨てた。
でも、今は、読みたかったと言っている。
「一つだけ、訂正しておきます」
ゼクスは、札を指先で弄びながら言った。
「私は、負けを認めました。今日、この場で、勇者くんに。……でも」
片眼鏡のない目が、まっすぐに俺を見る。
「物語の結末は、まだ、書いていません」
空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
「最初の版の結末は、没になりました。発売された版の結末は、誰かが継ぎ足したものです。……この世界の結末は、まだ、誰も書いていない」
「……何が言いたい」
「あなたが書くのか、勇者くんが書くのか、魔王様が書くのか。それとも、私が、もう一度書くのか」
ゼクスが、笑う。
「楽しみにしていますよ。……最後の封印のことは、魔王様に、聞いてごらんなさい」
札が、握り潰された。
黒い光が、ゼクスの体を包む。
光が消えたとき、凍った海の上には海水の水たまりが一つ、残っているだけだった。
***
しばらく、誰も、何も言わなかった。
氷の上を、潮風が吹き抜けていく。
港の氷の壁の向こうから、町の人々の歓声がかすかに聞こえ始めている。
「……最後の封印」
ミレイユが、ぽつりと言った。
「第四の封印が解けた。残りは、一つ。……五魔将は、あと誰が残っているの?」
誰も、答えなかった。
ヴァルガス。セレス。ガルム。ゼクス。
四人の魔将の証は、もう、折れている。兜。氷冠。牙。栞。
五魔将は、五人。
残る一人は――。
俺は、自分の手を見下ろした。
ひびだらけの、黒い籠手。
光沢を失った、ただの鉄の塊。
原作の五魔将の、筆頭の席。
ゲームの中では、最終章の直前に、名前だけが語られる存在だった。正体は、最後まで明かされなかった。
(広場でゼクスは、俺を筆頭と呼んだ。……あれは、群衆を煽る芝居や。チュートリアルの中ボスが座る席やない)
――あの席に座る魔将の顔を、俺は、テストのデータでも見たことがない。
「……先生?」
リオの声がした。
顔を上げると、リオが少し離れた場所から、こちらを見ていた。
何かを聞きたそうな顔で。でも、何も聞かずに。
俺は、首を横に振った。
分からない。
この先に何が待っているのか、デバッガーの俺にも、もう、見えなかった。




