第62話 作者の最後の一行
リオは、俺のほうを見なかった。
聖剣を構えたまま、ゼクスを見ていた。
足で床を固めて、重心を前に、脇を締めて。廃砦で、ブランシュで、雪の国で、砂漠で、少しずつ身につけてきた構え。
「……今の、全部」
リオが、低い声で言った。
「先生が、何をしたのか。僕には、よく分かりませんでした」
ゼクスの胸元の、固まった栞の光。
ひびだらけになった、俺の黒鎧。
「でも、先生が、何かを全部使って、あの人の力を止めたのは、分かりました」
リオの聖剣の切っ先が、まっすぐにゼクスの胸元を指した。
「……だから、ここからは、僕の番です」
***
ゼクスは、胸元の栞に、指を這わせていた。
なぞる。何度も、何度も。
栞は、もう、少しも光を揺らさない。白く、静かに、固まったまま。
「……書き戻せない」
ゼクスの声が、かすれていた。
「書き戻せない。書き戻せない。……私の、改稿が」
片眼鏡の奥の目が、俺を見た。
床に膝をついたまま、動けない俺を。
「あなたは……本当に、全部、捨てたんですね」
答えなかった。答える力も、残っていない。
ゼクスは、しばらく俺を見下ろしていた。
それから、ふっと、口元を歪めた。いつもの柔和な笑みではない。もっと、ずっと、歪んだ笑み。
「……いいでしょう」
ゼクスは、胸元から固まった栞を取り出した。
白い栞を、自分の額の前に、掲げる。
栞の白い光が、ゼクスの全身を包み込んでいった。
「改稿は、もう使えない。でも、栞には、まだ力が残っている。……この宮殿を書いた力が」
大広間の本棚が、震え始めた。
何千、何万という白紙の本が、棚から次々と飛び出していく。
頁が、ばらばらとめくれ上がる。白い紙が、嵐のように、大広間の中を舞い始めた。
「書き戻せないなら、書き足すだけです」
白い紙の嵐が、ゼクスの周りに渦を巻く。
頁が、刃のように鋭くなって、リオに向かって降り注いだ。
「――ボルドさん!」
「おう!」
ボルドが、リオの前に飛び出して、斧で頁の刃を叩き落とした。
ノエルの光の壁が、二人の頭上に張られる。ミレイユの炎が、壁を抜けてくる頁を、空中で焼き払った。
リオは、その陰から、走った。
懐へ。ゼクスは大きくないが、紙の嵐は、大きい。大きな相手には、懐が安全。
頁の刃が、リオの頬をかすめる。
腕をかすめる。肩を、脇腹を。
リオは、止まらなかった。
ゼクスの、三歩手前。聖剣を、床に突き立てた。
――聖域。
白い光が、床に広がっていく。
ゼクスの周りで渦を巻いていた紙の嵐が、ゆっくりになった。蜂蜜の中を舞うように、のろのろと。
ゼクスの顔が、驚きに歪んだ。
「――聖域……!」
リオは、聖剣を床から引き抜いた。
聖域の光は、すぐには消えなかった。
突き立てた場所から三歩の範囲に、魔力の働きを遅らせる光の名残が、ほんの数呼吸のあいだだけ床の上に揺らめいている。
その三歩の内側で。ゆっくりになった紙の嵐の隙間を縫って、リオは、跳んだ。
ゼクスの額の前に掲げられた、白い栞へ。
「――っ!」
ゼクスが、栞を引こうとした。
でも、聖域の中で、その腕は、のろのろとしか動かない。
聖剣が、栞を、真ん中から断ち切った。
――パキン。
乾いた音がした。紙が折れる音ではなかった。廃砦で兜が割れたときと、白霧の神殿で氷冠が割れたときと、闘技場で牙が折れたときと、同じ音。
撃破判定、成立。
(……よし)
床に膝をついたまま、俺は、心の中で呟いた。
(――今度は、俺が負けたんやない。お前が、勝ったんや)
***
白い光が、リオの全身を包んだ。
リオが、聖剣を見下ろす。
頭の奥に、あの眠たげな声が、響いているのだろう。
「……第四の、封印、解放」
リオが、呟いた。
その瞬間、大広間が、大きく揺れた。
白紙の本棚が、根元から崩れ始める。
天井にひびが走り、その隙間から、海の水が細い滝のように流れ込んでくる。
「――宮殿が、崩れる!」
ミレイユが、叫んだ。
「この宮殿は、改稿の力で書かれたものよ! 栞が折れたら、もう、形を保てない!」
天井のひびが、みるみる広がっていく。
流れ込む海水が、細い滝から、太い柱になる。床にあっという間に水が溜まり始めた。
「出口へ!」
ボルドがノエルの腕をつかんで、大扉へ走った。
ミレイユも、それに続く。
俺は、立ち上がろうとした。
膝に、力が入らない。黒鎧が、重い。魔力を失った鉄の塊が、体を床に押しつけてくる。
――泳げない。
魔力もなく、この鎧のまま海水に呑まれたら、二度と浮かんでこられない。
「――しっかりしなさい!」
セレスが、俺の腕をつかんでいた。
細い腕で、俺の体を引きずり起こそうとしている。
足元の海水が彼女の指先から凍りついて、俺の足の下に氷の板を作っていく。
「氷の上なら、歩けるでしょう!」
「……セレス」
「泳げない人を、こんなところで沈ませないわ!」
セレスに引きずられるように、氷の板の上を大扉へ向かって歩いた。
***
大扉の手前で、俺は、振り返った。
崩れていく大広間の真ん中で、ゼクスが、立ち尽くしている。
二つに折れた栞を、両手に持ったまま。
逃げようとしていない。流れ込む海水が、膝まで、腰まで、上がってきているのに。
――転移の札を、使わない。
いや、使えないのか。改稿で書いた宮殿の中で改稿が壊れた今、ゼクスの力は全部、栞と一緒に折れてしまったのかもしれない。
「ゼクス……!」
思わず、叫んでいた。
ゼクスは、こちらを見なかった。
両手の中の、折れた栞を、じっと見下ろしている。
天井が、崩れ落ちた。
巨大な石の塊が、海水と一緒に大広間の真ん中へ降ってくる。
ゼクスの姿が、白い水しぶきの中に呑み込まれた。
「――っ!」
俺の横を、何かが、すり抜けていく。
金髪の少年――リオが、大広間の中へ、走って戻っていく。
崩れ落ちる天井の下を。流れ込む海水の中へ。
「リオ!」
ノエルの悲鳴が、大扉の外から響いた。
リオの足は、止まらない。
腰まで水に浸かりながら、ゼクスが呑み込まれた場所へ。
水しぶきの中に、手を突っ込んだ。
引き上げたのは、黒い礼服の襟だった。
ゼクスの体が、海水の中からずるりと引きずり出される。片眼鏡は、どこかに流されて、もうなかった。
「……なぜ」
ゼクスが、咳き込みながら言った。
水を吐いて、リオの顔を信じられないものを見るように見上げている。
「なぜ、私を……。私は、あなたを、殺そうとしたんですよ。何度も、何度も……」
リオは、ゼクスの襟をつかんだまま、答えた。
「知ってます」
「なら、なぜ」
「……先生なら、そうすると思ったから」
ゼクスの目が、大きく見開かれる。
「ブランシュでも、雪の国でも、砂漠でも。先生は、敵だった人を、死なせなかった。……僕も、そうしたいと思ったんです」
リオの声は、震えていない。
「それに、僕が勝ったんです。勝った人は、負けた人の誇りを、踏みにじっちゃいけない。……ザハルで、教えてもらいました」
***
崩れ続ける大広間の中で、ゼクスは、しばらく、黙っていた。
海水が、胸まで上がってきている。
リオの小さな手が、ゼクスの襟をしっかりとつかんで離さない。
ゼクスの顔が、ゆっくりと、歪んでいった。
泣いているのか、笑っているのか、分からない顔。
「……私には」
ゼクスの声が、かすれた。
「私には、書けない場面だ」
ゼクスは、両手の中の、二つに折れた栞を、そっと手放した。
栞が、海水の中に、ゆっくりと沈んでいく。
白い光を、少しずつ失いながら。
「――負けました」
その一言は、崩れ落ちる天井の音の中で、不思議なほど、はっきりと聞こえた。
リオが、ゼクスの体を、大扉のほうへ引っぱる。
氷の板の上で、俺とセレスが、二人を待っていた。
セレスが、俺の腕を離して、両手を広げる。
崩れていく宮殿の周りの海水が一斉に凍りついて、俺たち全員とゼクスを包み込む、大きな氷の泡になった。
泡が、浮かび上がり始めた。
崩れていく白い宮殿を、足の下に残して。
海の底から、光のほうへ。




