第61話 栞を固定する
大広間の白い床に、黒鎧の足音が響いた。
ゼクスの片眼鏡が、こちらを向く。
柔和な笑みが、ほんの一瞬だけ、固まった。
「……おや。約束が違いますね、ヴァルガス殿」
「約束をしたのは、俺じゃない」
ゼクスに向かって歩いていく。
床に膝をついたリオの横を、通り過ぎる。
リオが、顔を上げた気配がした。でも、そちらは見なかった。
「勇者くんは、先生の手を借りずに来た。……あなたが、勝手に来ただけですよ」
「ああ。勝手に来た」
ゼクスとの距離が、十歩になる。
「何をしに来たんです? あなたが私を斬っても、私は書き戻します。あなたが栞を奪っても、奪わなかったことにします。……あなた一人が増えても、何も変わりませんよ」
「お前の改稿は、俺には効かない」
ゼクスの笑みが、また固まった。
「紅茶がこぼれたのを、覚えている。今、この大広間で、お前が二十三回書き戻したのも、全部覚えている。……ボルドの斧が、お前の左肩に食い込んだのが一回目。勇者の剣が、お前の栞をかすったのが二十三回目だ」
ゼクスの片眼鏡の奥で、目が細くなった。
「……なぜ」
「さあな。たぶん、俺が、改稿の仕様をテストした人間だからだろう」
本当のところは、分からない。
前世の俺は、改稿の巻き戻しを何百回もテストした。
栞を挟んで、書き戻して、また挟んで。巻き戻される前と後を一つずつ見比べて、ずれがないか確かめ続けた。
――改稿の外側から、改稿を見ていた人間。
この世界でも、俺は、その場所に立っている。
(ミレイユの言うとおりや。俺は、書かれた側やない)
***
「……それで?」
ゼクスの声から、柔らかさが消えた。
「覚えていられるからといって、何ができるんです。あなたが覚えていても、勇者くんは覚えていない。何度戦っても、勇者くんは、最初からやり直しです」
「だから、もう、書き戻させない」
俺は右手を、ゼクスに向かって差し出す。
「報告番号、四の二百十七」
ゼクスの動きが、止まった。
「四章ボス、海魔将の固有能力、改稿について。……発売の一年半前、俺が書いた不具合の報告書だ」
大広間の、白紙の本棚。
何千、何万という、何も書かれていない背表紙。
「改稿は、栞の中に、書き戻す先の時点を記録している。だから、栞の状態そのものが、少しも変わらないように固められてしまえば、新しく書き戻す先を記録できない。書き戻そうとしても、何も起きない」
ゼクスの顔から、血の気が引いていった。
「強い魔力を持つ別の存在が、栞に干渉すると、改稿は永久に発動しなくなる。……ボスの能力として致命的。仕様の見直しを推奨」
あの夜、会社の床に寝転がって、天井の染みを数えながら考えた文面だった。
「お前は、あの報告書を、読まなかったんだな」
ゼクスの唇が、震える。
「……読まずに、捨てました」
かすれた声。
「あなたが、床で寝ているあいだに。……私の書いた設定を、没にした報告書だと思ったから」
「そうか」
怒りは、湧いてこなかった。
ただ、少しだけ、寂しかった。
「読んでいれば、この能力の弱点を、自分で塞げたかもしれないのにな」
***
ゼクスが、胸元に手を伸ばす。
栞を、なぞろうとしている。
十呼吸前に。俺がこの大広間に足を踏み入れる前に。
――その前に、俺はゼクスの胸元に、手のひらを押し当てていた。
礼服の布越しに、栞の硬い感触が手のひらに伝わってくる。
「――やめなさい!」
ゼクスが、叫んだ。
初めて聞く、取り乱した声だった。
「それは、私の……! 私の書いた、私の……!」
手のひらから、黒鎧の魔力を栞に流し込んだ。
黒い光が、俺の腕を伝って、手のひらから溢れ出す。
ゼクスの胸元の、白い栞の光を、包み込むように。押さえつけるように。
栞が、抵抗した。
白い光が、俺の手のひらを焼くように押し返してくる。
書き戻そうとしている。何度も、何度も。十呼吸前へ、十呼吸前へと。
――させない。
さらに、魔力を流し込む。
黒鎧の奥底に溜まっていた魔力が、堰を切ったように腕へ、手のひらへと流れ出していく。
黒鎧の胸当てに、ぴしりと、細いひびが入った。
ひびは肩当てへ、籠手へと、網の目のように広がっていく。
黒鎧の表面から、鈍い光沢が少しずつ失われていく。
――五魔将最強の魔力。
百年以上、この鎧に溜め込まれてきた、ヴァルガスの力。
それが、手のひらから白い栞の中へ、流れ込んでいく。
「ヴァルガス……っ!」
背後で、セレスの声がした。
柱の陰から、飛び出してきたのだろう。
栞の白い光が、少しずつ、静かになっていく。
頁をめくるように明滅していた光が、一定の明るさで止まる。
固まっていく。
少しも、動かなくなっていく。
ゼクスが、俺の手首をつかんだ。
爪が、籠手の継ぎ目に食い込む。
「なぜ……! なぜ、そこまでするんです……!」
ゼクスの声が、悲鳴に近かった。
「あなたは、中ボスですよ!? 物語の本筋には、関係ない! チュートリアルで消えるはずだった、ただの通過点だ! それなのに、なぜ、自分の力を全部捨ててまで――」
最後の魔力が、手のひらから、流れ出ていく。
栞の光が、完全に、止まった。
白く、静かに。
もう、どこにも書き戻せない、固まった光。
黒鎧の光沢が、すべて消えた。
ただの黒い鉄の鎧になった胸当てが、ひびだらけのまま、重く体にのしかかってくる。
膝が、がくりと崩れかけた。
それでも、ゼクスの胸元から、手を離さない。
「……仕様です」
ゼクスの目が、見開かれた。
改稿は、もう、発動しない。
この栞は、永久に、今この瞬間に、固まった。
俺は、ようやく、手を離す。
そのまま、白い床の上に膝をついた。
力が、どこにも入らない。腕が、鉛のように重い。
背後で、足音がした。
軽い足音。
床を、つま先の付け根で固めてから、踏み出す足音。
振り返らなくても、分かった。
「――先生」
リオが、俺の横に立っていた。
聖剣を、まっすぐに構えて。




