第60話 改稿
大広間は、巨大な書斎だった。
天井まで届く本棚が、壁という壁を埋め尽くしている。
背表紙には、何も書かれていない。何千、何万という、白紙の本。
大広間の真ん中に、ゼクスが立っていた。
ゼクスの胸元から、白い栞の光が漏れている。
俺とセレスは、大扉の脇の、柱の陰に身を潜めていた。
セレスの氷で、柱の影の中に、小さな隙間を作ってある。そこから、大広間の中が見えた。
「お待ちしていました」
ゼクスは、両手を広げる。
「先生は、お連れにならなかったようですね。……よかった。約束を守ってくださって」
リオは、答えなかった。
聖剣を構えたまま、足で床を固める。重心を前に。脇を締めて。
ボルドが新しい斧を構えて、リオの左に出た。
ノエルが、その後ろに。ミレイユが、杖の先の水晶をゼクスに向けた。
「四人がかり、ですか」
ゼクスは、少しも慌てた様子を見せない。
「構いませんよ。何人でも、何度でも」
***
最初に動いたのは、ボルドだった。
斧を振りかぶって、ゼクスに真正面から斬りかかる。
ゼクスは、避けもしなかった。
斧が、ゼクスの肩に食い込んだ。
――そう見えた、次の瞬間。
ボルドは、斧を振りかぶった姿勢のまま、元の場所に立っていた。
「……あ?」
ボルドが、自分の手の中の斧を見下ろした。
斧の刃には、何もついていない。ゼクスの肩にも、傷一つない。
ボルドは、何が起きたのか分かっていない顔をしていた。
斧を振ったことさえ、覚えていないのだろう。
でも、俺は覚えていた。
斧が、ゼクスの肩に食い込んだこと。
ゼクスが指先で胸元の栞をなぞり、すべてが十呼吸前に書き戻されたこと。
(……やっぱり、俺には効かんのか)
改稿の巻き戻しを覚えていられるのは、使った本人だけ。
なのに、俺は紅茶のときと同じように、全部、覚えている。
「――炎の矢よ!」
ミレイユの杖から、炎の矢が三本、放たれた。
矢は、ゼクスの胸に突き刺さる。
ゼクスの体が、後ろによろめいた。
栞が、光る。
ミレイユは杖を構えた姿勢のまま、元の場所に立っていた。
杖の先の水晶には、まだ、炎の気配すら宿っていない。
「……今、私、何か……」
ミレイユが、眉をひそめた。
さすがの賢者でも、巻き戻されたことには気づけない。
ただ、何かがおかしいということだけは、感じ取っているようだった。
***
リオが、走った。ゼクスの懐へ。
大きな相手には、懐が安全。――ゼクスは大きくないが、リオの体は、もうその動きを覚えていた。
聖剣が、ゼクスの胸元を斜めに斬り上げる。
ほんの一拍だけ遅らせた、ザハルで覚えた剣。
刃が、ゼクスの礼服を裂いた。
胸元の隠しから、白い栞がひらりとこぼれ落ちる。
リオが、聖剣を返した。
落ちていく栞を、刃の先でまっすぐに狙う。
――届く。
聖剣の切っ先が、栞に触れる。
栞が、光った。
リオは、大広間の入口に、立っていた。
聖剣を構えた、最初の姿勢のまま。ゼクスとの距離は、二十歩。
ゼクスは、大広間の真ん中で、栞を胸元にしまっていた。
礼服には、裂け目一つない。
「……え?」
リオが、目を瞬いた。
何が起きたのか、分からない顔だった。
でも、聖剣を握る手が、かすかに震えている。体のどこかが、さっきの一撃の手応えを、覚えているのかもしれない。
「おや。惜しかったですね」
ゼクスが、穏やかに笑った。
「今のは、なかなか良い剣でした。……と言っても、あなたには、何のことか分からないでしょうけれど」
***
それから、何度も同じことが繰り返された。
リオが、走る。ボルドが、斧を振る。ミレイユが、炎を放つ。ノエルが、光の壁で三人を守る。
届く。斬れる。栞に、触れる。
――そして、すべてが、なかったことに。
五回目。十回目。二十回目。
柱の陰で、俺は、全部を見ていた。全部を、覚えている。
リオは、毎回、違う攻め方をしていた。
巻き戻されたことは覚えていないはずなのに、体のどこかで前の失敗を覚えているかのように、少しずつ剣の入り方が変わっていく。
懐から、背後から、ボルドの斧の陰から。ノエルの光の壁を足場にして、跳び上がって。
二十三回目には、とうとう、栞を聖剣の切っ先でほんの少しだけ傷つけた。
栞が、光った。
リオは、また、大広間の入口に立っている。
「……っ」
リオの膝が、がくりと崩れた。
息が、荒い。汗が、顎から滴り落ちている。
巻き戻されたぶんの戦いはなかったことになっても、疲れだけは、どこかに残っていくのだろうか。
ボルドも、肩で息をしていた。
ノエルの光の壁が、ちらちらと揺らいでいる。ミレイユは、杖にすがるようにして立っていた。
「どうしました、勇者くん」
ゼクスは、少しも疲れていなかった。
改稿は、使った本人の疲れも、巻き戻すのだ。
ゼクスだけが、何度戦っても、最初の姿のまま。
「何度でも、書き直せますよ」
ゼクスは、胸元の栞を、指先で撫でた。
「あなたが何度勝っても、私は、勝たなかったことにします。何度でも。何度でも。……あなたの心が、折れるまで」
リオは床に膝をついたまま、聖剣の柄を握りしめていた。
顔を上げない。肩が、小刻みに震えている。
「……なんで」
かすれた声が、漏れた。
「なんで、届かないんだ……」
――届いている。
二十三回、届いている。お前の剣は、二十三回、あいつの栞に触れた。
でも、それを覚えているのは、俺だけだ。
柱の陰で、拳を握りしめていた。
セレスが、俺の籠手を両手でつかんでいた。
冷たい指が、震えている。
「……行くのね」
セレスの声も、震えていた。
俺は、柱の陰から、一歩、踏み出した。




