第57話 海が凍る日
夜明け前、港じゅうに鐘が鳴り響いた。
カン、カン、カン、カン――。
ブランシュの祭りの夜に聞いたのと同じ、早鐘だった。
宿を飛び出すと、通りは寝間着のまま逃げ惑う人々であふれていた。
誰もが、沖を指さして、何かを叫んでいる。
沖を見た。海が、立ち上がっていた。
入り江の幅いっぱいに、壁のような水の塊がゆっくりと持ち上がっていく。
灯台の三倍、いや、五倍はある。夜明け前の薄明かりの中で、その壁は黒く、どこまでも高かった。
――津波だ。
原作には、もちろん、ない。
ゼクスが、改稿で書き加えたのだろう。
水の壁の真ん中に、白い光がちらちらと明滅していた。栞の光。
(勇者を、おびき出すためか)
渦の底へ来いと言った。
それなのに、来るのを待たずに、町ごと呑み込もうとしている。
――いや、違う。勇者が町を見捨てられないことを知っているのだ。津波が来れば、勇者は必ず、町を守ろうとする。守ろうとして、波の前に立つ。
ゼクスは、勇者を波の前に立たせたいのだ。
***
灯台へ続く坂道の下から、金髪の少年が走り出てくるのが見えた。
リオだった。聖剣を抜いて、港の突堤へ向かって走っていく。後ろから、ノエルが追いかけていた。
(あほか……!)
あの水の壁に、聖剣一本で、何ができる。
聖域を張っても、魔力の働きを遅らせるだけだ。遅らせても、あの量の水は、止まらない。
追いかけようとして、足が止まった。
――先生の手を、借りずに。
ゼクスの声が、耳の奥で聞こえた。
そして、桟橋で、リオが言ったこと。もう、先生って、呼べません。
俺が今、あの子の前に飛び出したら。
「――行かなくていいわ」
隣で、静かな声がした。
セレスが、フードを脱いでいた。
銀色の髪が、夜明け前の潮風に大きくなびいている。
「今日は、私の番よ」
セレスは、それだけ言うと、港の突堤へ向かって歩き出した。
***
突堤の先端に、リオが立っていた。
聖剣を両手で構えて、迫ってくる水の壁を見上げている。
足が、震えていた。それでも、目は閉じていない。
ノエルがリオの隣で、震える手で光の壁を張ろうとしていた。
でも、光の壁は、あまりにも小さかった。あの水の壁の前では、ろうそくの火のように頼りない。
水の壁が、港の入り江に、なだれ込み始める。
――そのとき。
突堤の根元から、銀色の髪の女が、リオの横を通り過ぎていった。
「……え?」
リオが、振り返る。
セレスは、リオの前に出た。
突堤の、本当の先端。足元のすぐ先が、海だった。
セレスは、両手を前に差し出した。
指先から、白い冷気が海へと降りていく。
砂漠では指先に細くたなびくのがやっとだった冷気が、今は滝のように、海へと流れ落ちていく。
――冷たい海。北の果てから流れてくる、氷の故郷の潮。
氷の魔将にとって、この海は、自分の体の一部のようなものだった。
海面が、凍り始めた。突堤の足元から、沖へ向かって。
ぱき、ぱき、ぱきと、乾いた音を立てながら、白い氷が海の上を走っていく。
氷は、迫ってくる水の壁の根元に届いた。
水の壁が、下から、凍り始めた。
根元から、腰へ。腰から、胸へ。
黒い水の壁が、透き通った青白い氷の壁に変わっていく。崩れ落ちようとしていた水の頂きが、空中で、そのまま凍りついた。
夜明けの最初の光が、東の海から差し込んだ。
港の入り江いっぱいに、巨大な氷の壁が、そびえ立っていた。
灯台の五倍の高さの、透き通った青白い壁。朝日を浴びて、内側から虹色に光っている。
波の音が、消えた。
港じゅうが、静まり返っていた。
逃げ惑っていた人々が足を止めて、凍りついた津波を見上げている。
***
セレスの体が、ぐらりと揺れた。
膝が崩れかけたところを、リオがとっさに支えた。
「だ、大丈夫ですか!」
「……平気よ」
セレスはリオの腕に体重を預けたまま、息を整えている。
「この海は冷たいから。砂漠に比べれば、ずっと楽だわ」
リオは、セレスの顔を、すぐ近くから見ていた。
銀色の髪。青白い肌。青い目。
白霧の神殿で、全力で来なさいと言った人。氷の巨人と一緒に、砕け散ったはずの人。
「……氷の、魔将」
リオの声が、震えた。
「生きて、たんですね」
「ええ」
「妹さんは」
「無事よ。今は、北の森で、小さなゴブリンと一緒に、私の帰りを待ってるわ」
リオの目から、涙がぽろりとこぼれた。
桟橋では、最後までこらえていた涙。
なのに、今はこらえる間もなく、次から次へとこぼれていく。
「よかった……」
リオは、セレスの体を支えたまま、何度も言った。
「よかった、本当に、よかった……」
セレスは、少しだけ驚いた顔をした。
それから、リオの頭に、そっと手を置く。
「……あなた、本当に、あの人が言っていたとおりの子ね」
リオが、顔を上げる。
「あの人に、助けられたのは、私も同じよ」
セレスはリオの肩越しに、突堤の根元のほうを見た。
俺が立っている場所を。
リオも、セレスの視線をたどって、振り返った。
目が、合う。
リオは、何も言わなかった。俺も、何も言えない。
ただ、リオは、目をそらさなかった。
桟橋のときのように、背を向けることも、しなかった。
***
凍りついた津波の壁の真ん中で、白い光が明滅している。
栞の光だ。氷に閉じ込められて、身動きが取れなくなったように、弱々しく。
その光の真下で、氷の壁に細い亀裂が入る。
亀裂は、壁の根元から沖へ向かって伸びていった。
まるで誰かが、氷の上に一本の線を引いたように。
亀裂に沿って、氷が左右に割れていく。
割れた氷の下に、道ができていた。
凍った海の上を、沖の渦の中心へ向かってまっすぐに続く、白い氷の道が。
道の先で、渦の中心の闇が、ぽっかりと口を開けていた。
――来なさい、と言っているようだった。




