第56話 知っていた人たち
『――リオが、怒ってるわ』
伝声貝の向こうで、ミレイユが言った。
夜。港の外れの安宿の部屋。
俺は窓辺に座り、セレスは床の上で、溶けかけた氷の駒を指先で転がしていた。
『桟橋から戻ってきて、すぐに、私とボルドを部屋に呼んだの。……知ってたんですか、って』
ミレイユの声は、いつもより、ずっと疲れていた。
『私は、正直に答えたわ。ザハルの闘技場で、あなたの素顔を見たときから知ってた、って。……ボルドも、同じ。ブランシュの少し前から、魔将だって気づいてた、って』
ミレイユが、息を吐く。
『あの子、黙って聞いてたわ。最後まで、何も言わずに。……それから、言ったの』
少しの間。
『みんな、知ってたんですね。僕だけが、知らなかったんですね、って』
窓の外で、灯台の光が、海の上をゆっくりと回っていく。
***
『ノエルは、リオの側についたわ』
ミレイユは、淡々と続けた。
『ノエルは、本当に何も知らなかったの。時計塔の夜に、あなたが銀色の髪の女と会ってるのを見ただけで。……だから、怒ってる。リオに黙ってた私とボルドに。それから、あなたに』
「……当然だ」
『ボルドは、何て言ったと思う?』
答えを、待たれている気がする。
「……自分で決めろ、か」
『よく分かったわね』
ミレイユが、少しだけ笑った。
『自分で決めろ。俺が先に言ったら、お前は自分で決められなくなった。だから言わなかった。……それだけ言って、部屋を出ていったわ』
ザハルの医務室で、ボルドが言ったこと。
――坊主が、自分で気づくまでな。
あの男は、最後まで、自分の言葉を守った。
『それで、今。パーティは、真っ二つよ』
ミレイユの声が、硬くなる。
『リオは、一人で渦の底へ行くって言ってる。ゼクスの言ったとおり、先生の手を借りずに。……ノエルは、一緒に行くって。私とボルドには、来なくていいって』
***
『ヴァルガス』
ミレイユが、俺の名前を呼んだ。
『あなた、答えを出さなかったのね』
責める声ではなかった。
ただ、事実を確かめるように。
「……出せなかった」
『どっちでもいいわ。結果は同じだもの』
ミレイユは、少しだけ間を置いた。
『一つ、教えてあげる。……あの子、部屋で、まだ兜のかけらを握ってるわ』
息を、呑んだ。
『捨ててない。床に叩きつけもしなかった。ずっと、握ったまま、窓の外の沖を見てる』
ミレイユの声が、柔らかくなった。
『怒ってるのは、本当よ。でも、それだけじゃない。……あなた、「誰でもよかったわけじゃない」って言ったんでしょう。なのに、その先を言わなかった。それが、いちばん、こたえてるんだと思う』
桟橋で、リオは言った。
――僕じゃなくても、聖剣を持ってる人なら、誰でもよかったんですか。
『あの子が聞きたかったのは、仕組みじゃない。自分が、あなたにとって何だったのか、よ』
分かっていた。
分かっていて、言えなかった。
『次に会うときまでに、答えを出しておきなさい。……今度こそ』
伝声貝の光が、消える。
***
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
セレスが床の上で、氷の駒を一つ作り直した。
小さな、少年の形をした駒。腰に、細い剣を下げている。
「……一人で、渦の底へ」
セレスが、駒を見つめたまま言う。
「ゼクスは、改稿を使うのよね。勝っても勝っても、なかったことにされる」
「ああ」
「あの子一人じゃ、勝てない」
「……ああ」
「でも、あの子は、あなたの手を借りないって言ってる」
セレスは、少年の駒を模型の海底宮殿の前に置いた。
「どうするの」
答えは、一つしかなかった。
「……行く」
セレスが、顔を上げる。
「あの子が、借りないと言っても。……栞を固定するのは、俺にしかできない。あの子が渦の底へ行くなら、俺も行く」
「見つかったら?」
「見つからないように行く。……それでも見つかったら、そのときは、そのときだ」
セレスはしばらく、俺の顔を見ていた。
小さく、ため息をつく。
「また、一人で決めたのね」
「……すまん」
「謝らなくていいわ。……今度は、一人じゃないもの」
セレスは、模型の海底宮殿の周りに小さな氷の泡を一つ作った。
泡の中に、黒い駒と銀色の駒を並べて入れる。
「泳げないあなたを、渦の底まで連れていけるのは、私だけでしょう」
口の端が、ほんの少しだけ、上がっている。
***
夜更けに、窓の外が、ふいに明るくなった。
灯台の光ではなかった。
沖のほうから、青白い光が海面を這うように広がってくる。
窓辺に立って、目を凝らす。
沖の渦が、大きくなり始めていた。
昨日までの、家一軒ほどの大きさではない。港の入り江の幅いっぱいに、渦の縁が広がっていく。
渦の中心の闇から、白い光が漏れている。
頁をめくるように、ちらちらと明滅しながら。
――栞の光だ。
「……ゼクスが、動き出した」
セレスが、俺の隣に立った。
青白い光に照らされたその横顔が、硬く引き締まっていく。
渦の縁で、海面が盛り上がり始めていた。




