第55話 全部、嘘だったんですか
港の外れの桟橋は、古くて、半分崩れかけていた。
漁師たちも、もう使っていないのだろう。
板の隙間から、波が打ち寄せるのが見える。俺が乗れば、たぶん、割れる。
だから、俺は桟橋の根元の石垣に立ったまま、動かなかった。
リオは桟橋の先まで歩いていって、そこで振り返った。
海を背にして。俺と、十歩の距離を空けて。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
波の音と、遠くで鳴く海鳥の声だけが、桟橋の上を流れていく。
「……廃砦で」
リオが、口を開いた。
「僕が、先生の兜を割ったとき。先生は、わざと負けたんですか」
「……ああ」
「重心が踵に乗ってるとか、左脇が鎧の継ぎ目だとか。あれは」
「お前に、勝ってもらうためだった」
リオの唇が、きゅっと結ばれる。
「トロルを斬ったのも」
「俺だ」
「ブランシュの、ヒュドラも」
「お前の剣が届いた場所を、俺がなぞった」
「氷の巨人の中にいたのも」
「……俺だ」
一つ答えるたびに、リオの肩が小さく揺れた。
嘘はもうつけないし、この子に向かってつきたくもなかった。
「氷の魔将は」
「生きている。……妹と一緒に」
リオが、ほんの一瞬だけ目を閉じて、また開いて俺を見る。
「ザハルで、ボルドさんの傷を冷やしてくれた人ですね」
「……ああ」
「銀色の髪が、見えました」
やはり、見ていたのか。
***
「なんでですか」
リオの声が、少しだけ大きくなった。
「なんで、魔王軍の魔将が、僕を助けるんですか。勝たせるために、わざと負けて。ヒュドラを倒して、手柄を僕にくれて。氷の魔将の代わりに、巨人の中に入って」
波が、桟橋の柱にぶつかって、白く砕けた。
「なんで、そこまでするんですか」
答えなければならない。
前世のこと。ゲームのこと。原作の筋書き。
勇者が負ければ、世界が終わること。ゼクスが、それを望んでいること。
全部話せば、説明はつく。
なぜ、魔将が勇者を勝たせようとするのか。
でも、それは――。
(それは、「なんで」の答えやない)
この子が聞いているのは、仕組みではない。
どうして、自分のために、そこまでしてくれたのか。
その答えを、俺はまだ、持っていなかった。
ミレイユに聞かれた夜から、ずっと探して、まだ見つけられていない。
「……勇者が負ければ、世界が終わる」
口から出たのは、仕組みのほうだった。
「魔王軍の参謀が、それを望んでいる。……だから、止めたかった」
リオは、黙って聞いていた。
それから、小さく首を横に振る。
「……それだけ、ですか」
桟橋の板が、波に揺られて、きしんだ。
「世界が終わらないために、僕を勝たせたんですか。僕じゃなくても、聖剣を持ってる人なら、誰でもよかったんですか」
「……」
「剣の振り方を教えてくれたのも。雪道の歩き方を教えてくれたのも。負けを認めろって、言ってくれたのも。……全部、世界のためだったんですか」
「……違う」
声が、出た。自分でも驚くほど、低くて、かすれた声。
「誰でもよかったわけではない」
それだけは、確かだった。
リオが、目を見開く。
「……じゃあ、なんでですか」
その先が、出てこなかった。
誰でもよかったわけではない。でも、なぜなのか。この子の何が、俺にあそこまでさせたのか。言葉にしようとすると、喉の奥で何かが固まって、動かなくなった。
リオの目に、涙が浮かんでいた。
こぼれそうで、こぼれない。この子はいつも、ぎりぎりのところで泣かずにこらえる。
「僕、嬉しかったんです」
リオの声が、揺れた。
「村で、誰も剣を教えてくれなかった。騎士様にも、筋がないって言われた。……先生だけが、教えてくれた。まっすぐ振れたとき、先生は、黙ってうなずいてくれた。それが、すごく、嬉しかったんです」
ブランシュの河原。百回振れ、と言った夕暮れ。
「僕が、廃砦の魔将を倒したって、褒められるたびに。ヒュドラを倒した勇者だって、言われるたびに。……全部、先生がくれたものだったなんて」
リオは袖で、目元を乱暴に拭った。
「全部、嘘だったんですか」
***
波の音が、ひどく大きく聞こえた。
嘘だった、と言えば、終わる。
嘘じゃなかった、と言えば――何が嘘じゃなかったのか、説明しなければならない。
テストの報告書なら、いくらでも書けた。
再現手順も、発生条件も、修正案も。
でも、今この子に渡すべき言葉は、どの報告書の書式にも載っていなかった。
白霧の神殿のあと、氷の地下室でセレスにかける言葉が見つからなかったときと、同じだ。
あのときは、ただ隣に座ることができた。
今は、十歩の距離を、一歩も詰められない。
詰める資格が、俺にはない。
「……嘘では、ない」
それだけは、言えた。
「河原で、お前がまっすぐ振れたのも。俺が、うなずいたのも。……あれは、嘘ではない」
リオは、長いあいだ、俺の顔を見ていた。
その先を、待っている。じゃあ、何が本当だったのか。なぜ、黙ってうなずいたのか。
この子は、最後まで待ってくれている。
それでも、その先は、どうしても出てこなかった。
リオの目から、ようやく涙が一筋こぼれ落ちた。
「……分かりました」
小さな声。
リオは、桟橋の上を歩いてきた。
俺の横を、通り過ぎる。
すれ違う瞬間、リオは足を止めずに言った。
「もう、先生って、呼べません」
足音が、石垣の上を遠ざかっていく。
振り返らなかった。
振り返る資格も、なかった。
***
どれくらい、そこに立っていたのか分からない。
日が傾いて、海が橙色に染まり始めたころ、背後で小さな足音がした。
「……ここにいたのね」
セレスだった。
フードを脱いで、銀色の髪を潮風になびかせている。
何も聞かずに、俺の隣に並んだ。
崩れかけた桟橋を、二人で眺める。
「……言えなかった」
自分でも驚くほど、かすれた声が出た。
「違う、と言っただけだ。その先を、あの子は、ずっと待ってくれていたのに」
セレスは、何も言わない。
ただ、俺の籠手の上にそっと手を重ねた。
氷の一族の手は、冷たい。
でも、黒鎧の籠手は、砂漠のときのように熱くはなかった。
だから、セレスは、手を離さなかった。




