第54話 作者の暴露
翌日の昼、港の広場は魚市の人出でごった返していた。
白い石畳の上に色とりどりの日よけの布が張られ、その下で漁師の女房たちが、銀色に光る魚を並べて声を張り上げている。
焼いた貝の香ばしい匂いと、潮の匂いと、人いきれ。どこにでもある、港町の昼下がりだった。
俺は、広場の端の、噴水の縁に腰かけていた。
黒騎士の姿で。安物の鉄兜に、五枚目のマント。
広場の反対側の、灯台へ続く坂道の下に、リオたちの宿がある。
今日、リオに会いに行くつもりだった。
――ミレイユに聞かれた夜から探している答えを、今日は、ちゃんと言うつもりで。
何と言うかは、まだ決まっていない。
それでも、言わなければならない。ミレイユの言うとおり、あの子は、もう、つなぎ始めているから。
宿の扉が開いて、四つの人影が出てきた。
リオ、ノエル、ボルド、ミレイユ。
リオは広場を横切って、こちらへ歩いてくる。
迷いのない足取りだった。
――あの子のほうから、来るつもりだったのか。
リオが、噴水の三歩手前で足を止める。
「先生」
いつもの、弾むような声ではなかった。
硬く、まっすぐな声。
「聞きたいことが、あります」
俺は、立ち上がった。
答えよう。今度こそ、この子が全部を口にする前に、俺のほうから――。
「――おや。ちょうどいいところに」
柔らかな声が、広場に響いた。
***
広場の真ん中の、噴水の向こう側。
さっきまで魚の箱が積まれていた石畳の上に、いつの間にか一人の男が立っていた。
柔和な笑みを浮かべている。
その足元から、海水がじわりと湧き出している。
乾いた石畳の上に、まるで潮が満ちてくるように。
「なんだ、あいつ……」
「足元から、水が……」
広場の人々が、ざわめきながら、後ずさっていく。
ゼクスは、両手を広げた。
「マリネラの皆さん、ごきげんよう。私は、魔王軍五魔将が一人、海魔将ゼクス」
広場が、凍りついたように静まり返る。
「――そして」
ゼクスの視線が、リオへ向けられた。
「聖剣の勇者くん。お久しぶり……ではないですね。初めまして、と言うべきでしょうか」
リオが、聖剣の柄に手をかけた。
ボルドが新しい斧を構えて、リオの前に出る。ノエルが、杖を握りしめた。
ミレイユだけが、動かずに、こちらを見ていた。
翡翠色の目が、俺に向かって何かを言おうとしている。
(――来るな)
分かっていた。ゼクスが、何をしに来たのか。
「今日は、戦いに来たのではありません。勇者くんに、ささやかな贈り物を」
ゼクスは、右手の指を、ぱちんと鳴らした。
噴水の水が、跳ね上がった。
水が細い鞭のようにしなって、俺の顔へ飛んでくる。
――速い。避けきれない。
ばきん、と乾いた音がした。
鉄兜が、頭から弾き飛ばされる。
安物の兜は、石畳の上をからからと転がっていく。
潮風が、素顔に吹きつけた。
***
広場じゅうの視線が、俺の顔に集まっていた。
黒い髪に、鋭い目。頬に走る、古い傷跡。
町の人々には、ただの大柄な傭兵の顔にしか見えないだろう。
でも。
「――勇者くん」
ゼクスの声が、楽しそうに弾んでいる。
「ご紹介しましょう。あなたの先生は、廃砦であなたが兜を割った、魔王軍五魔将の筆頭」
ゼクスは芝居がかった仕草で、俺のほうへ手を差し伸べた。
「黒鎧の魔将、ヴァルガスですよ」
時間が、止まったようだった。
噴水の水音だけが、静かに続いている。
広場の人々が、ひそひそと囁き合う声が、遠くに聞こえた。魔将、と。五魔将の、筆頭、と。
(……筆頭? 原作の筆頭は、名前しか出てこん魔将や。俺のはずがない)
ノエルが、口元を手で押さえていた。
ボルドは、斧を構えたまま、動かない。ただ、その目は俺ではなく、リオを見ていた。
そして、リオは。
聖剣の柄に手をかけたまま、俺の顔をまっすぐに見ていた。
驚いていない。
それが、いちばん、胸に刺さった。
「ヒュドラを倒したのも、氷の巨人の中にいたのも、全部この方です。あなたが勇者として称えられてきたことの、半分以上は――」
「知ってました」
リオの声が、ゼクスの言葉を断ち切った。
ゼクスの片眼鏡が、わずかに光る。
「……おや」
「知ってました。昨日の夜、全部、自分で並べて、気づきました」
リオは、ゼクスのほうを見なかった。
俺だけを、見ている。
「でも」
声が、震えた。
「先生の口から、聞きたかった」
***
ゼクスは、つまらなそうな顔をした。
「……なるほど。もう、気づいていましたか。せっかくの裏切りの場面が、少しだけ台無しですね」
それでも、すぐに、いつもの柔和な笑みに戻る。
「まあ、いいでしょう。結果は、同じですから」
ゼクスの足元の海水が、引いていく。
まるで、満ち潮が、そのまま引き潮になるように。
「勇者くん。私は、沖の渦の底で待っています。第四の封印は、私の胸の中に」
ゼクスは、胸元を軽く叩いた。
白い栞の光が、礼服の布越しにかすかに透けて見える。
「来たければ、どうぞ。……ただし、その先生の手を、借りずに」
ゼクスの体が、足元から、海水に溶けるように消えていった。
最後に残った片眼鏡が一瞬だけ日の光を反射してから、ぱしゃりと水たまりに落ちる。
水たまりは、すぐに乾いて、石畳の上には何も残らなかった。
***
広場には、俺とリオたちだけが取り残されていた。
町の人々は、遠巻きにこちらを見ている。
魔将、という言葉が、まだ囁き声の中を漂っていた。
俺は、石畳の上に転がった鉄兜を拾わなかった。もう、意味がない。
リオが、聖剣の柄からゆっくりと手を離した。
「……先生」
かすれた声。
「少し、二人で、話せますか」
ボルドが、斧を下ろした。
何も言わずに、ノエルの肩に手を置いて、一歩下がる。
ノエルが、何かを言いかけて、ボルドを見上げた。
ボルドは、小さく首を振った。
ミレイユは、黙って、目を伏せている。
俺は、うなずいた。
広場を出て、港の外れの、人のいない桟橋へ。
リオが先に歩き、俺は、その三歩後ろをついていく。
――廃砦のときと、逆だ。
あのとき、震えながら俺の前に立っていた少年が、今は俺の前を歩いている。
振り返らない背中が、小さく見えた。
それでも、その足取りは、一歩も迷っていなかった。




