第53話 没になった理由
宿の部屋の床に、セレスが氷で、海底宮殿の模型を作っていた。
円い屋根に、細い尖塔。回廊の柱の頁の模様まで、正確に。
一度見ただけで、ここまで覚えているのか。
「器用だな」
「暇だったのよ。あなたが、宮殿から戻って一晩じゅう黙り込んでいたあいだ」
セレスは、模型から目を上げずに言った。
昨夜のことは、何も聞いてこなかった。
でも、たぶん、全部分かっている。この女は、いつも、いちばんよく見ている。
床の上に置いた伝声貝から、ミレイユの声が聞こえている。
『それで、改稿っていうのは、どういう仕組みなの?』
「栞を挟んだ時点まで、周りの出来事を書き戻す。範囲は、およそ十呼吸前まで。書き戻したことを覚えていられるのは、使った本人だけ」
『使った本人だけ……。でも、あなたは、紅茶がこぼれたのを覚えていたんでしょう?』
「ああ」
『なぜ?』
それは、俺にも分からなかった。
ゼクスは、テストで何度も繰り返したから覚えているのだろう、という顔をしていた。
でも、それだけでは、説明がつかない気がする。
「……分からん。ただ、俺には、効かないのかもしれない」
『効かない、か』
伝声貝の向こうで、ミレイユが考え込む気配。
『あなた、先のことが夢で見えるって言ったわね。……その前は、どこにいたの』
一拍、迷った。
前世のことは、まだ誰にも話していない。
「……ずっと遠いところで、床に寝ていた。目を開けたら、廃砦だった」
『なら、仮説ね』
ミレイユの声が、少しだけ速くなる。
『改稿は、書き直す力なんでしょう。書き直せるのは、書かれたものだけよ。あなたは、この物語の中で生まれた人じゃない。外から来た』
(寝とった、んやろか。……あの夜)
『もしそうなら、それは使えるわね。少なくとも、あの男が何を書き直したのか、あなたには分かる』
「分かっても、止められなければ意味がない」
『それもそうね』
***
改稿を止める方法を、思い出そうとしていた。
発売の一年ほど前、四章のボスの能力が、まるごと差し替えられた。
もともとの能力が、改稿。差し替えの理由は、確か、不具合が見つかったからだ。
どんな不具合だったか。
記憶の底を、探る。
テストの報告書を書いた夜。会社の床に寝転がって、天井の染みを数えながら、報告の文面を考えていた。
――報告番号、四の二百十七。四章ボス「海魔将」の固有能力「改稿」について。
思い出した。
「……栞だ」
セレスが、模型から顔を上げた。
「改稿は、栞を起点にして書き戻す。栞の中に、書き戻す先の時点が、記録されているんだ。……つまり、栞の状態そのものが変えられなくなれば、書き戻す先も変えられなくなる」
『どういうこと?』
「栞を、固定する。外から、大きな力で押さえつけて、栞の中身が少しも変わらない状態にする。そうすると、改稿は、書き戻す先を新しく記録できなくなる。書き戻そうとしても、栞が古い時点のまま固まっているから、何も起きない」
あのときの報告書の、最後の一行を思い出す。
――強い魔力を持つ別の存在が、栞に干渉すると、改稿が永久に発動しなくなる。ボスの能力として致命的。仕様の見直しを推奨。
その報告書が通って、改稿は没になった。
『……つまり、強い魔力で、栞を押さえつければいいのね』
「ああ」
『誰が?』
答えなかった。
答える前に、セレスが模型の上の氷の駒を、指先でつまみ上げている。
「強い魔力、って、どれくらいなの」
セレスの声が、静かだった。
「改稿は、ゼクスの力そのものよ。それを押さえつけて、少しも動かないように固めるなら、魔将一人分の魔力じゃ足りないんじゃないの」
「……」
「あなたの黒鎧の魔力、全部でも、足りるかどうか」
セレスの青い目が、俺を見た。
――全部で、足りる。たぶん。
テストのときの数値で考えれば、ヴァルガスの黒鎧に溜まった魔力のほぼすべてを注ぎ込めば、栞を固定できる。
ただし、そのあと黒鎧には、ほとんど何も残らない。
黒閃も撃てず、氷の巨人も動かせない。ヴァルガスは、ただの大柄な男になる。
「……足りる」
それだけ言った。
セレスは、つまみ上げた氷の駒を手のひらの上で転がす。
「それで、あなたはどうなるの」
「……少し、弱くなる」
「少し?」
「……だいぶ」
ミレイユが、小さく息を呑む音がした。
***
『他に、方法はないの?』
ミレイユが、硬い声で言った。
「ない。……少なくとも、俺には思いつかん」
『リオは、それを知ってるの?』
「知らない」
『言うつもりは?』
「……ない」
伝声貝が、しばらく黙る。
『……一つ、聞いていい?』
「なんだ」
『あの子に、まだ何も言えていないのと、今、黒鎧の力を全部捨てるって決めたのと。……あなたの中で、同じ場所から来てる気がするのは、私の気のせい?』
「……気のせいでは、ない」
理由までは、言わなかった。
ミレイユも、それ以上は追及しなかった。
伝声貝の光が消えた。
部屋の中に、セレスと二人きり。
セレスは、手のひらの上で溶けかけた氷の駒をじっと見つめていた。
駒は、少しずつ形を失って、透明な水になっていく。
「……あなた、また一人で何か決めたでしょう」
セレスが、ぽつりと言った。
「白霧の神殿のときも、そうだった。全部一人で計算して、全部一人で引き受けて。……私が、信じないって言っても、勝手に」
「……」
「今度は、自分の力を全部、捨てるのね。勇者のために」
セレスが、顔を上げる。
怒っているようには、見えない。
ただ、ひどく、寂しそうな顔をしていた。
「あの子に嘘をつき続けてきたことは、書き直せないのに。……力だけは、全部差し出すの」
手のひらの上で、最後の氷が溶けて消える。
俺は、窓の外の、沖の渦を見ていた。
渦の中心の黒い闇は、昨日よりも少しだけ大きくなっている気がした。




