第51話 作者の招待
招待状は、翌朝、宿の窓辺に置かれていた。
白い封筒に、参謀の紋の封蝋。
雪の国の廃坑の氷牢に置かれていたのと、同じ白だ。
『ヴァルガス殿へ。
海の底で、お茶でもいかがですか。
渦の真上で、お待ちしています。
泳げないことは存じていますので、ご心配なく。お連れの方に、潜り方をお任せします。
――ゼクス』
「……泳げないことまで、知られてるのね」
セレスが封筒をのぞき込んで、呆れたように言った。
「桟橋で落ちかけたのも、見られてたのかしら」
「たぶんな」
あの男は、いつも、どこかで見ている。
***
漁師から小舟を借りて、沖へ出た。
俺が乗ると、小舟は、縁ぎりぎりまで沈み込んだ。
漁師は「あんた、何でできてるんだ」と首をひねっていた。セレスが舟底を薄い氷で補強すると、どうにか浮いていられた。
渦の真上まで来ると、海は不思議なほど静かだった。
巨大な渦が、足の下でゆっくりと回っている。
なのに、小舟は少しも揺れない。渦の縁でぴたりと止まったまま、波にも流されない。
「招かれてる、ってことね」
セレスは舟の縁に立って、両手を広げた。
指先から、白い冷気が海面へと降りていく。
海面が凍りつき、その氷が、俺たちを包むように丸く膨らんでいった。
透き通った、氷の泡だった。
小舟ごと、俺とセレスをすっぽりと閉じ込めている。
「中の空気は、しばらくもつわ。……沈むわよ」
氷の泡が、渦の中心へ沈み始めた。
***
海の底へ。最初は、青い光の中を沈んでいった。
魚の群れが氷の泡の周りを、不思議そうに回っている。
やがて、光が薄くなり、藍色の闇が深くなっていった。
氷の泡の表面に、ときどき、大きな影がかすめていく。
どれくらい沈んだのか、分からなくなったころ。
足の下の闇の中に、白い光が見えた。
宮殿だった。
海の底に、白い石の宮殿が建っている。
円い屋根に、細い尖塔。回廊の柱には、紙の頁のような模様がびっしりと彫り込まれている。
――原作には、こんな宮殿はなかった。
開発中のデータにも、なかった。
氷の泡が、宮殿の中庭に、ふわりと降り立つ。
泡が溶けると、そこには、ちゃんと空気があった。海の底なのに、水が宮殿の中には入ってこない。
「ようこそ、私の宮殿へ」
回廊の奥から、聞き慣れた声がした。
いつもの姿のゼクスが、両手を広げて、こちらへ歩いてくる。
ただ、一つだけ、違うものがあった。
ゼクスの胸元の隠しに、白い紙のようなものが一枚、差し込まれている。
***
宮殿の奥の、小さな部屋に通された。
壁一面が、本棚だった。
背表紙には、何も書かれていない。全部、白紙の本だ。
部屋の真ん中の小さな卓に、紅茶の茶器が並べられていた。
ゼクスが慣れた手つきで、三つの茶碗に紅茶を注ぐ。
「どうぞ。毒は入っていませんよ。……まあ、信じてもらえないでしょうけど」
俺もセレスも、茶碗に手を伸ばさなかった。
ゼクスは気にした様子もなく、自分の茶碗を口に運んだ。
「この宮殿、気に入っていただけましたか?」
「……原作には、なかった」
「ええ。私が書きました。四章の舞台を、少しだけ書き換えて」
ゼクスは、茶碗を卓に置いた。
「海魔将の座に就いたとき、魔王軍の古い書庫で、面白いものを見つけたんです。開発中に没になった、海魔将の能力。……あなたなら、ご存じでしょう」
――没になった、海魔将の能力。
記憶の底を探る。発売の一年ほど前、四章のボスの能力が、まるごと差し替えられたことがあった。もともとの能力は、確か――。
「……改稿」
ゼクスの口元が、嬉しそうに緩んだ。
「さすがです」
ゼクスは、胸元から白い紙を一枚取り出した。
栞だった。何も書かれていない、白紙の栞。ほのかに、白い光を放っている。
「改稿。栞を挟んだ時点まで、周りの出来事を書き戻す力です。……ご覧に入れましょうか」
ゼクスは、自分の茶碗を指先で、とん、と弾いた。
茶碗が倒れた。紅茶が卓の上に、こぼれて広がっていく。
ゼクスは、栞を、指先で軽くなぞった。
――次の瞬間。
茶碗が、卓の上に、立っていた。
中には、紅茶がなみなみと注がれたまま。卓の上には、一滴のこぼれた跡もない。
ゼクスは、何事もなかったように、茶碗を口に運んだ。
「書き戻せるのは、ほんの十呼吸ほど前まで。それに、書き戻したことを覚えていられるのは、私だけです」
隣で、セレスが、かすかに身を強ばらせた。
「……今、何をしたの」
「紅茶をこぼして、こぼさなかったことにしました」
ゼクスは、にこやかに答える。
「セレス殿には、紅茶がこぼれたことも、今は分からないでしょう。でも、あなたは、覚えているはずです。……この力の仕様を、テストしていた人ですから」
――覚えていた。
茶碗が倒れたことも、紅茶が広がったことも。
俺の頭の中には、はっきりと残っている。
なぜ覚えているのか。テストのとき、改稿の巻き戻しの範囲を調べるために、何度も何度も同じ場面を繰り返したからだろうか。それとも――。
「つまり、こういうことです」
ゼクスは、栞を胸元に戻した。
「私は、負けません。勇者くんの剣が私に届いても、届かなかったことにします。封印を解くために、勇者くんは私の証を折らなければならない。……でも、折られても、折られなかったことにします」
ゼクスの声は、穏やかだった。
「何度でも。何度でも。勇者くんの心が折れるまで」
部屋の中に、静かな沈黙が落ちる。
壁一面の、白紙の本。この男は、まだ何も書かれていない物語を、ここで何度でも書き直すつもりなのだ。
「……あんたの勝手だ」
俺は、立ち上がった。
「お茶は、飲まなくていいんですか?」
「要らん」
「残念」
ゼクスは、少しも残念そうでない顔で、茶碗を置く。
「では、最後に、一つだけ」
部屋を出ようとした俺の背中に、ゼクスの声がかかった。
「勇者くんに、あなたのことを、教えてあげましょうか」
足が、止まる。
「黒騎士の正体。廃砦で、あの子が兜を割った魔将が、ずっとそばにいたこと。ヒュドラも、氷の巨人も、あなたが倒させてあげたこと。……あの子は、どんな顔をするでしょうね」
背を向けたまま、聞いた。
「物語には、裏切りの場面が必要なんですよ。いちばん信じていた人が、実は敵だった、という場面が」
ゼクスの声が、楽しそうに弾んでいる。
「いい場面になりますよ。私が書きますから」
俺は、何も答えずに、部屋を出た。
回廊の柱に彫られた、無数の頁の模様。
その一枚一枚が、まだ何も書かれていない白紙のまま、俺を見下ろしていた。




