第50話 冷たい海
南の海は、思っていたよりずっと冷たかった。
ボツの背中から見下ろすと、マリネラの港の沖に、濃い藍色の海流が帯のように流れ込んでいるのが分かる。
北の果ての氷の海から、何千里もかけて南へ下ってくる冷たい潮だ。原作の設定資料には、そう書いてあった。
「――気持ちいい」
背中の後ろで、セレスが言った。
振り返ると、セレスはフードを脱いで、海から吹き上げてくる風に銀色の髪をなびかせている。
砂漠でぐったりしていたのが嘘のように、頬に血の気が戻っている。指先から細く白い冷気が、楽しげに立ちのぼっていた。
「生き返ったようだな」
「生き返ったのよ。砂漠では、本当に一度、死にかけたもの」
セレスは目を閉じて、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「この海、北の故郷と同じ匂いがする」
***
マリネラは、白い石で造られた港町だった。
入り江を囲むように、白い壁と青い屋根の家々が、段々畑のように斜面に並んでいる。
港には大小の帆船がひしめき合い、桟橋の上では日焼けした漁師たちが網を繕いながら、威勢のいい声を掛け合っていた。
ボツを町外れの岬の洞窟に隠して、俺たちは港へ降りていった。
俺は黒騎士の姿で、新しい鉄兜をかぶっている。
ザハルの市場で買い直したものだ。練習用の兜は、獣の前脚で真っ二つにされてしまったから。
「その兜、前のより安っぽいわね」
「……一番安いのにした」
「マントも?」
「五枚目だ」
セレスは、小さく吹き出した。
桟橋の先まで歩いていくと、海の色がよく見えた。
透き通った青緑の水の底に、白い砂と、揺れる海藻が見える。小さな魚の群れが銀色の光を散らしながら、桟橋の杭のあいだをすり抜けていった。
「綺麗ね」
セレスが桟橋の縁にしゃがみ込んで、水面に指先を浸した。
指が触れたところから、水面に薄く氷の花が咲く。
「……冷たくて、気持ちいい」
氷の花は、波に揺られて溶けていく。
その様子を眺めながら、俺は桟橋の縁に一歩近づいた。
――それが、間違いだった。
桟橋の板が、俺の足の下でみしりと鳴った。
ヴァルガスの体に黒鎧の重さが加わると、たぶん、熊を二頭まとめたくらいの重さになる。
古い桟橋の板は、そんな重さを想定して作られていなかった。
ばきん。
板が、真っ二つに割れた。
(あ、これ、落ちるやつや)
片足が、海の上に突き出す。
体が、ゆっくりと傾いていく。
黒鎧を着たまま海に落ちたら、どうなるか。
テストで一度だけ、海に落ちたヴァルガスの挙動を確かめたことがある。結果は、沈んだまま浮かんでこなかった。だから、海のマップには、ヴァルガスが入れないように見えない壁が張ってあった。
この世界には、見えない壁はない。
「――っ、何してるの!」
セレスが、俺のマントの裾をつかんだ。
同時に、俺の足の下の海面が、ばきばきと音を立てて凍りついた。
分厚い氷の板が、落ちかけた俺の足を受け止める。
俺は氷の板の上に、片足で立っていた。
もう片方の足は、割れた桟橋の穴に膝まではまったまま。
「……助かった」
「あなた、泳げないの?」
「……鎧が重いだけだ」
「泳げないのね」
セレスはマントの裾をつかんだまま、肩を震わせていた。
砂漠では、俺が暑さに弱いセレスを笑う側だった。海では、立場が逆らしい。
桟橋の上で網を繕っていた漁師たちが、ぽかんとこちらを見ている。
「……あんた、その鎧で桟橋を歩くのは、やめといたほうがいいぜ」
「……ああ」
「それと、姉ちゃん、今、海を凍らせたか?」
「気のせいよ」
セレスはすました顔で、桟橋の穴から俺の足を引っぱり出した。
***
港の神殿の前の石段で、子供たちが木の棒を振り回していた。
「勇者の剣を、くらえっ!」
「ぐわあああ!」
勇者ごっこらしい。魔将の役の子が、三人がかりで叩かれて、石段に転がっている。
その魔将役が、起き上がるなり、俺を指さした。
「でっかい黒いの! 魔将やって!」
(……本職やぞ、俺)
断る前に、棒を一本、手に押しつけられていた。
勇者の役は、いちばん小さな男の子だ。棒を持つ手が震えていて、重心が踵に乗っている。
怪しまれずに済ませるなら、負けるのがいちばん早い。
大きく振りかぶって、わざと遅く振る。男の子が、目をつぶって棒を突き出した。
こつん、と胸当てに当たる。
「ぐ、ぐわあああ……! 見事だ、勇者よ……!」
石段に膝をついて、ゆっくりと倒れてみせた。
子供たちが歓声を上げ、網を繕っていた漁師たちが、腹を抱えて笑う。
(よし、負けた。……目は、つぶったらあかんけどな)
セレスだけが、笑いをこらえて、肩を震わせていた。
「――お上手ですな」
石段の上から、声がした。
白い法衣の、年老いた神官だった。胸に、王都の神殿の金の聖印を下げている。
(……原作の、最初の場面の神官や)
祠で聖剣を抜いた少年の肩に手を置いて、旅に出す人。テストで、何千回も同じ台詞を聞いた相手だ。
「王都の方が、なぜ南の港に」
「勇者様の旅の記録を、集めて回っております。通られた町の神殿で話を書き留めて、王都の書庫へ送るのです」
神官は、子供たちの棒きれを、目を細めて眺めた。
「百年前の勇者様の記録も、書庫にございます。北の小さな村の祠から、聖剣を抜いて旅立った、と」
「その先は」
「途切れております。旅立ちの一行のあとは、白紙で」
神官は、穏やかに笑った。
「王都では、魔王と相討ちになられた、ということになっております」
「なっている、とは」
「そういうことになっております」
それ以上は、何も言わなかった。
「今の勇者には、王は会ったのか」
「いいえ。陛下は、魔王を討ってから、お会いになるそうです」
三日の稽古で、送り出して。勝って戻ってきたら、会う。
(戻ってこんかったら、また白紙のページが一枚、増えるだけか)
原作の設定資料にも、先代の勇者の最後は、一行も書いていなかった。
石段の下で、勇者の役の男の子が、棒を空に突き上げている。
***
港の外れの安宿に部屋を取ったころ、懐の伝声貝が震えた。
『――聞こえる? ヴァルガス』
ミレイユの声。
『リオたちと一緒に、マリネラに着いたわ。港の東側の、灯台の近くの宿にいる』
「そうか」
『リオは、元気よ。……少なくとも、見た目は』
ミレイユの声が、曇った。
「何かあったのか」
『ザハルを出てから、あまり喋らないの。ノエルが話しかけても、上の空で。夜も、一人で兜のかけらを眺めてる』
――兜のかけら。
廃砦の帰り道、トロルの残骸の上に落ちてきた、黒い金属の破片。
リオは、それをずっと持ち歩いている。
『それと、白霧の神殿で拾ったっていう、黒い削りかす。あれも、一緒に並べて眺めてるわ』
息を、呑んだ。
『色が、同じなのよ。同じ黒。私の目にも、そう見える』
伝声貝の向こうで、ミレイユが小さく息を吐いた。
『あの子は、もう、つなぎ始めてる。……分かってるでしょうけど』
「……ああ」
『もう一つ。沖のほうを見て。港の人たちが、今朝から騒いでるの』
***
宿の窓を開けて、沖を見た。
夕暮れの海が、赤と藍に染まっている。
その沖合、港から船で半刻ほどの場所の海面が渦を巻いていた。
ただの渦ではない。
家が丸ごと一軒呑み込めそうなほど大きな渦が、音もなく静かに回り続けている。
渦の中心は、底が見えないほど深く、黒かった。
「……原作には、なかったわね。あんなの」
隣で、セレスが言った。
いつの間にか、俺が「原作」という言葉を使うのに、すっかり慣れてしまったらしい。
「なかった。原作の四章は、海の上の島の城が舞台だった」
「じゃあ、あれは」
「……書き換えられたんだ」
渦の中心の黒い闇を、俺は見つめていた。
五魔将、四番手、海魔将ゼクス。
ギギの帳面に残っていたのは、その一行だけだ。言伝も、手紙もなかった。
――その代わりに、これを置いていったのか。
渦の底から、かすかに何かが光った気がした。
白い、紙のような光が。




