第48話 賢者の取引
ミレイユに呼び出されたのは、翌日の夕暮れだった。
場所は、都の外れの、古い図書館の屋上。
砂色の石の壁に、日干し煉瓦の平らな屋根。屋根の上から、夕日に染まる砂漠が地平線まで見渡せた。
ミレイユは、屋根の縁に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
膝の上に、分厚い革表紙の本を一冊、載せている。
「来たのね、黒騎士さん」
振り返らずに言った。
「……それとも、ヴァルガスって呼んだほうがいい?」
顔に巻いた布の下で、息を吐く。
予想はしていた。闘技場で、割れた兜の下の素顔を見られたときから。
「好きに呼べ」
「じゃあ、ヴァルガス」
ミレイユは、膝の上の本を開いた。
古い紙に、手書きの文字がびっしりと並んでいる。
ページの真ん中に、一枚の挿絵があった。黒い鎧を着た、大柄な男の絵。兜をかぶっていない。黒い髪に、鋭い目。頬に、古い傷跡。
「百二十年前の、人間の兵士の手記よ。戦場で、一度だけ兜を脱いだ黒鎧の魔将を見たって。挿絵は、その兵士が自分で描いたもの」
ミレイユは、挿絵と布を巻いた俺の顔を見比べた。
「そっくりね」
「……」
「布、取ってもいいわよ。ここには、私しかいないもの」
少しだけ迷ってから、俺は顔の布をほどく。
額の傷は、もう塞がりかけていた。
ヴァルガスの体は、治りが早い。
ミレイユは翡翠色の目で俺の顔をじっと見つめてから、本を閉じた。
「取引をしましょう」
***
「あなたが、黒鎧の魔将ヴァルガスだということは、誰にも言わない。リオにも、ノエルにも」
ボルドが知っていることは、言わなかった。
ミレイユも、たぶん、気づいているのだろうが。
「代わりに、知っていることを、全部話して」
「全部?」
「聖剣のこと。封印のこと。五魔将のこと。……それから、あなたが、なぜ勇者を守っているのか」
ミレイユは、屋根の縁から立ち上がった。
三つ編みが、夕日の中で揺れる。
「私は、賢者よ。知らないことがあるのが、いちばん嫌いなの。……特に、目の前にある謎を、放っておくのが」
セレスに話したのと同じ形で、話すことにした。
前世のことは伏せて、代わりに、この先に起きることがある程度見えている、とだけ言った。夢のような形で、と。
聖剣の封印は、五つ。五魔将を倒すたびに、一つずつ解ける。
すべて解けなければ、魔王は倒せない。
五魔将のうち、二人は、もう倒れた。俺と、セレス。
ガルムが、三人目。
「二人とも、死んではいない。……俺も、セレスも」
ミレイユの眉が、ぴくりと動いた。
「昨日の、ボルドの傷を冷やしていた、砂色のフードの人」
「……ああ」
「氷の魔将セレス、ね。リオが、髪を見て何か気づいていたわ」
やはり、見ていたのか。
「それと、魔王軍の参謀、ゼクスという男がいる。勇者を、旅の途中で殺そうとしている。ブランシュの魔物も、雪の国の人質も、ガルムの呪いも、全部あの男の仕業だ」
ミレイユは、黙って聞いていた。
途中で一度も、口を挟まない。
話し終えたとき、砂漠の地平線に、夕日の最後のひとかけらが沈んでいった。
***
「……分からないことが、一つ増えたわ」
ミレイユが、ぽつりと言った。
「あなたは、魔将よ。魔王軍の、五魔将の最古参。なのに、勇者が魔王を倒すのを、手伝っている。……なぜ?」
まっすぐな問い。
セレスにも、同じことを聞かれたことがある。
「……勇者が負ければ、世界が終わる」
それだけは、言えた。
「ゼクスは、勇者を殺して、この世界を、終わらせようとしている。あいつの書いた……あいつの望む結末にするために。それを、止めたい」
「世界が終わるのは、魔将のあなたにとっても困る、ということ?」
「……そうだ」
「それだけ?」
ミレイユは、首をかしげる。
「それだけなら、勇者の剣の振り方まで、教える必要はないわよね。氷の槍の避け方も、雪道の歩き方も。負けを認めることも」
答えられない。
ミレイユは、それ以上は追及しなかった。
代わりに、屋根の縁から、都の通りを見下ろした。
宿へ続く大通りを、二つの人影が歩いている。
金髪の少年と、白い法衣の少女。少年が、市場で買ったらしい果物の袋を抱えて、少女に何かを話している。少女が少年の頭を軽く小突く。
「……リオは、いずれ気づくわ」
ミレイユが、静かに言った。
「あの子は、目がいい。鎧の魔力の質も、剣の教え方も、昨日の銀色の髪も、全部見ている。今はまだ、つなぎ合わせていないだけ。……そのうち、必ず、全部つながる」
闘技場で、ガルムがリオに言った。
――ヴァルガスと、同じことをする。
あの言葉も、たぶん、リオの耳に残っている。
「つながったとき、あの子は、知ることになるわ。廃砦で、自分が兜を割った魔将が、ずっと自分のそばにいたことを。自分が倒したと思っていた氷の魔将が、生きていることを。ヒュドラを倒したのも、氷の巨人を倒したのも、本当は――」
ミレイユは、言葉を切った。
「――そのとき、あなたは、何と言うの」
夜風が、屋根の上を吹き抜けていく。
答えを、探した。探して、見つからなかった。
全部、嘘だったと言うのか。
全部、お前のためだったと言うのか。
どちらも、違う気がした。
ミレイユは、俺の答えを待たなかった。
分厚い本を胸に抱えて、屋根の上の階段のほうへ歩いていく。
「答えは、今じゃなくていいわ。……でも、考えておいて。あの子に、先生って呼ばれ続けたいなら」
階段を降りる直前、ミレイユは、一度だけ振り返った。
「それと、ヴァルガス」
「……なんだ」
「闘技場で、リオが走っていったとき。あなた、嬉しそうな顔をしていたわよ」
ミレイユは、それだけ言って、階段の向こうに消えた。
屋根の上に、俺一人が残る。
砂漠の夜空に、星が出始めていた。
雪の国で見たのと、ブランシュで見たのと、同じ星。
(……何と言うか、か)
答えは、まだ、どこにもなかった。




