第47話 ボルドの傷
ボルドの傷は、深かった。
獣の爪は、大斧ごと、ボルドの左の脇腹を裂いていた。
ノエルの治癒の光が、傷口を塞ごうとしては押し戻されている。
「塞がらない……!」
ノエルの声が、震えていた。
「血が、止まらないの……! 治しても、治しても、すぐに開いて……!」
獣の爪には、楔の魔力が、まだ残っていたのだろう。
傷口の周りの肌が、赤黒く変色している。
ミレイユが、杖の先の水晶を傷口にかざした。
眉間に、深い皺が寄る。
「……呪いの残り滓が、傷の中にこびりついてる。治癒の魔法を、弾いてるのよ。取り除くには、時間がかかる」
「時間って、どれくらい……!」
「半日。でも、このままじゃ、半日もたない」
ノエルの顔から、血の気が引いた。
リオが、ボルドの手を握っていた。
何も言わずに。ただ、大きな手を両手で包み込むように。
――半日。
俺は、観客席の上のほうを見上げた。
砂色のフードの女が、石段の陰にうずくまるように座っていた。
さっき、真昼の太陽の下で、何千人を守る氷の壁を立てた女だ。壁は二撃で砕かれた。それでも、あの壁がなければ、子供たちは間に合わなかった。
フードの奥で、セレスが、こちらを見ている。
俺は、小さくうなずく。
***
セレスはフードを目深にかぶったまま、石段を降りてきた。
「……誰?」
ノエルが、怯えたように身を引く。
「旅の者よ。少しだけ、氷が使えるの」
セレスは顔を覆った布の下から、低い声で言った。
ボルドの横に膝をつくと、傷口の上に両手をかざす。
指先から、白い冷気が静かに降りていった。
傷口の周りに、薄い霜が張った。
霜は、傷口の縁を覆っていく。噴き出していた血が、少しずつ勢いを失っていった。
「冷やして、血の流れを遅くするの。傷を塞ぐことはできないけれど、時間は稼げる」
セレスの声は、かすれていた。
真昼の太陽が、まだ真上から照りつけている。
セレスの肩が、細かく震えていた。顔を覆った布が、溶けた水でじっとりと濡れている。
「……その人、大丈夫なんですか」
リオが、セレスを見上げる。
「すごく、苦しそうですけど」
「平気よ」
セレスは、即答した。
「私は、暑いのが少し苦手なだけ。……この人は、子供たちを守ったんでしょう。なら、私が倒れるわけにはいかないわ」
リオは、何かを言いかけて、口を閉じた。
セレスの布の隙間から、銀色の髪が一筋、こぼれ落ちている。
リオの目が、その髪に一瞬だけ止まった。
――白霧の神殿で、氷の巨人の前に立っていた女の髪と、同じ色。
リオは、何も言わない。
ただ、ボルドの手を握り直して、セレスに深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
***
日が沈むまで、セレスはボルドの傷を冷やし続けた。
ミレイユが呪いの残り滓を、一つずつ取り除いていく。
ノエルが取り除かれた場所から順に、治癒の光で傷を塞いでいく。
闘技場の医務室の、石の寝台の上。
俺は医務室の入口の柱にもたれて、それを見ていた。
顔には、まだ布を巻いている。
日が完全に沈んで、砂漠の夜風が医務室に流れ込んできたころ。
ミレイユが杖を下ろして、大きく息を吐いた。
「……終わったわ」
ノエルの治癒の光が、最後の傷口をそっと塞いだ。
ボルドの脇腹には、長い傷跡が残っていた。
でも、もう血は流れていなかった。赤黒く変色していた肌も、少しずつ元の色に戻り始めている。
ノエルが、寝台の横に、へたり込んだ。
声を上げずに、泣いていた。
セレスが、ふらりと立ち上がった。
足元がおぼつかない。俺は柱から離れて、彼女の腕を支えた。
黒鎧の籠手が、熱かったのだろう。
セレスが、小さく顔をしかめた。
「……熱い」
「我慢しろ」
「あなたの鎧、本当に嫌い」
セレスはそれでも、俺の腕に体重を預けたまま医務室を出ていく。
***
ボルドが目を覚ましたのは、夜更けだった。
医務室には、俺一人が残っていた。
リオとノエルは、寝台の横で椅子に座ったまま眠っている。ミレイユは、宿に戻って薬の調合をすると言って出ていった。
「……まだ、いたのか。あんた」
低い、かすれた声。
振り返ると、ボルドが寝台の上で目を開けていた。
天井を見上げたまま、こちらを見ずに言う。
「……傷は、塞がった」
「ああ。……坊主が、ずっと手を握ってた気がする」
「握っていた」
「そうか」
ボルドは、しばらく黙っていた。
「子供たちは」
「全員、無事だ」
「……そうか」
ボルドの口元が、少しだけ緩んだ。
天井を見上げたまま、ボルドは言った。
「あんた、魔将だろう」
医務室の灯りが、揺れる。
椅子の上で眠っているリオとノエルは、目を覚まさなかった。
ボルドの声は、俺にしか聞こえないくらい、低かった。
「……いつから、気づいていた」
「ブランシュの、少し前からだ。街道の切り通しで、盗賊の弓の弦が、全部いっぺんに切れた日があった」
ボツの背中から、黒閃を撃った日だ。
「あの日、崖の上に、誰かの気配がした。ただ者じゃない気配が。……それから、ブランシュの広場で、あんたの背中を見たとき、同じ気配だと思った」
ボルドは、顔をこちらに向けた。
「俺は、昔、兵士だった。魔王軍と戦ったこともある。……魔将の気配は、一度覚えたら、忘れない」
「……」
「それに、あんたは、坊主に剣を教えるとき、いつも、あいつの足元から見る。重心がどこにあるか、真っ先に確かめる。……廃砦の魔将が、坊主に怒鳴ったのと、同じことを言うってのも、坊主から聞いた」
何も、言い返せない。
ボルドは、俺の布を巻いた顔をじっと見つめていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「坊主には、言わん」
予想していなかった言葉。
「……なぜだ」
「坊主が、自分で気づくまでな」
ボルドは、椅子の上で眠っているリオに、目をやった。
リオは、ボルドの寝台の端に頭を乗せて、すうすうと寝息を立てていた。
「あいつは、あんたのことを、先生って呼んでる。……あんたが何者でも、あいつに剣を教えて、あいつを守ってきたのは、あんただ。それは、変わらん」
ボルドが、目を閉じる。
「いつか、あいつは気づく。目のいい坊主だからな。……そのときに、あいつが自分で、どうするか決めればいい。俺が先に言っちまったら、あいつは、自分で決められなくなる」
医務室に、静かな夜風が流れ込んできた。
「……礼を言う」
それだけを、口にする。
「礼を言うのは、こっちだ」
ボルドは、目を閉じたまま、言った。
「あんた、獣の牙の下で、坊主を守ってくれたんだろう。……あの坊主に、何かあったら、俺は、あいつの村の村長に、顔向けできん」
しばらくして、ボルドの寝息が聞こえ始める。
俺は入口の柱にもたれたまま、夜明けまで三人の寝息を聞いていた。




