第46話 獣王の負け方
裂けたマントの切れ端を拾って、顔に巻いた。
目元だけを残して、額から顎まで。
割れた鉄兜の代わりにはならないが、少なくとも、リオが目を覚ましたときに素顔を見られずに済む。
血が、布に染みていく。
額の傷は、思ったより深い。
「――黒騎士さん」
背後から、涼しい声がした。
ミレイユが、杖をついて、砂の上を歩いてくる。
翡翠色の目が、布を巻いた俺の顔を、一度だけ見た。何も言わずに、リオの横に膝をつく。
懐から、小さな瓶を取り出す。
中の青い液体を、リオの唇に、少しずつ垂らした。
「魔力切れよ。聖域を、張りすぎたの。……すぐ、目を覚ますわ」
ミレイユは、リオの額に手を当てたまま、俺のほうを見ない。
「顔、隠すのね」
「……」
「賢明だわ」
それだけだった。
***
リオが目を覚ましたのは、それから間もなくだった。
「……先生?」
ぼんやりとした目で、布を巻いた俺の顔を見上げる。
「先生、兜は……」
「割れた」
「顔、怪我したんですか」
「かすり傷だ」
リオは、しばらく俺の顔を見つめていた。
布の隙間の、目のあたりを。
はっとしたように、体を起こした。
「ガルムさんは!?」
振り返ったリオの目に、砂の上に膝をついた獣王の姿が映る。
ガルムは、まだ、同じ場所にいた。
膝をついたまま、観客席の、抉られた石段のほうを見つめている。
石段の上で、ノエルが、ボルドの体に両手をかざしていた。
白い光が、ボルドの胸の上で明滅している。ノエルの肩が、小刻みに震えていた。
「ボルドさん……!」
リオが、立ち上がろうとして、よろめいた。
ミレイユが、その腕をつかんで支える。
「ノエルが診てる。今は、あなたにできることはない」
「でも……!」
「あなたには、まだ、やることがあるでしょう」
ミレイユは、砂の上のガルムを、杖で指した。
***
ガルムが、立ち上がった。
足元が、ふらついている。
獣になったときの反動で、体じゅうの筋が、悲鳴を上げているのだろう。
それでも、ガルムは、自分の足で立った。
観客席を、見上げる。
何千人もの獣人が、息を詰めて、獣王を見下ろしていた。
ガルムは、大きく息を吸い込んだ。
「――ザハルの民よ」
その声は、かすれていた。
でも、闘技場の最上段まで、はっきりと届いた。
「我は、獣王ガルム。……今、この舞台で、我は獣に堕ちた」
観客席が、ざわめく。
「負けを認められず、聖剣の勇者に膝をつかされたことを受け入れられず。……師の教えに背き、理性を失い、我が民に、牙を向けた」
ガルムは、観客席の石段を見た。
抉られた石。砕けた氷の残骸。ノエルの腕の中で、動かない男。
「我が民を守ったのは、我ではない。……人間の戦士だ」
ガルムの拳が、震えている。
「師は言った。負けを認められぬ者は、獣に堕ちる、と。……我は、それを、身をもって知った」
ガルムは、リオのほうに向き直った。
聖剣を握った少年は、ミレイユに支えられて、まだふらつきながら立っていた。
ガルムは、その少年の前まで歩いていくと――。
砂の上に、両膝をついた。
観客席が、どよめいた。
獣王が、人間の少年の前で、両膝をついている。
「聖剣の勇者よ」
ガルムは、首にかけた獣王の牙の首飾りを、両手で外した。
「我の、負けだ」
牙の首飾りを、リオの前に、差し出す。
「我は、負けを認める。……この牙を、折ってくれ。それが、獣人の決闘の、負けの証だ」
リオは、差し出された牙を、見下ろしていた。
大人の腕ほどの長さの、白い獣の牙だった。
何代もの獣王が、首にかけてきた、獣人の王の証。
「……僕が、折っていいんですか」
「貴様でなければならん」
ガルムは、まっすぐにリオを見上げた。
「貴様は、獣になった我の前に、聖剣を突き立てに来た。爪の届く場所へ、自分から。……あれは、勝つための剣ではなかった。誰かを守るための剣だった」
――師の言葉だ。
中庭で聞いた、ガルムの話。
魔王の拳には迷いがなかった。誰かを守るための拳だった。だから、師は負けを認めた、と。
「師が、魔王様に負けたのと、同じ負け方だ。……誇らしい負けだ」
ガルムの獅子の顔が、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。
リオは、長いあいだ、牙を見つめていた。
それから、聖剣を、ゆっくりと持ち上げる。
白い刃が、牙の真ん中に、そっと当てられる。
「……ありがとうございました、ガルムさん」
聖剣が、振り下ろされた。
――パキン。
乾いた音。獣王の牙が、真ん中から、二つに折れた。
白い光が、聖剣の刃から、リオの全身に広がった。
リオが、はっとしたように、聖剣を見下ろす。
頭の奥に、あの声が響いているのだろう。
眠たげな、女の人の声が。
「……第三の封印、解放」
リオが、呟いた。
***
観客席から、最初の拍手が起きたのは、それから少し経ってからだった。
最前列の、獣人の子供。
さっき、獣の爪から逃げ遅れて、ボルドに守られた子供たちの一人。
小さな手で、ぱち、ぱち、と。
ゆっくりと、拍手をしている。
その隣の子供が、真似をした。
そのまた隣の大人が、真似をした。
拍手が、波のように、観客席全体に広がっていく。
歓声ではなかった。ただ、静かな、長い拍手だった。
負けを認めた獣王と、その負けを受け取った勇者への。
***
拍手の中で、ガルムが、ゆっくりと立ち上がった。
膝の砂を払いもせずに、俺のほうへ歩いてくる。
布を巻いた顔の前で、足を止めた。
ガルムは、俺にしか聞こえない声で言った。
「……貴様だったのだな」
「……」
「我の首の後ろに、何かを打ち込まれていたことは、獣になって初めて分かった。それを断ち切ったのも、貴様の剣だ。……違うか」
俺は、何も答えない。
ガルムはそれ以上は聞かず、代わりに、低く言った。
「宮殿の夜、貴様は言った。負けそうになったら、負けを認めろ、と」
「……ああ」
「負けを認めるのも、強さだ。……師と、同じことを言う奴だ」
ガルムは、俺の肩に、大きな手を置いた。重くて、温かい手。
「ヴァルガス。貴様が何者になったのかは、聞かん。……だが、礼は言う」
ガルムは、手を離して、背を向けた。
観客席の石段へ。
ノエルの腕の中で動かない、大柄な人間の戦士のほうへ。
獣王は、自分の民を守った男の前に、膝をついた。




