第45話 師弟の共闘
――あほか。
走ってくるリオを見た瞬間、最初に浮かんだのは、それだった。
動くなと言った。
三歩の内側を守れ、とも。
なのに、あの子は聖剣を抜いて、獣の爪の届く場所へ走ってくる。
獣の前脚が、俺から離れた。
真っ赤な目が走ってくる少年を捉えて、前脚が高々と振り上げられる。
(あかん――!)
膝を、砂から引き抜いた。
腕の感覚は、ほとんどない。それでも、大剣を獣の前脚の付け根に叩きつけた。
刃が、毛皮に食い込む。
獣の前脚の軌道が、わずかに逸れた。
爪が、リオの頭のすぐ横の砂を深々と抉る。
リオは、止まらなかった。
抉られた砂の横を駆け抜けて、獣の前脚のすぐ脇へ。
俺の、三歩手前へ。
両手で握った聖剣を、振りかぶった。
「先生――!」
聖剣が、砂に、突き立てられた。
白い光が、刃から砂へ、波紋のように広がっていく。
俺の足元を越えて、獣の前脚を越えて、獣の胸の下まで。
――聖域。
世界が、ゆっくりになった。
***
最初に気づいたのは、音だった。
獣の咆哮が、低く、間延びして聞こえる。
まるで、水の中で聞いているように。
次に、獣の動きが見えた。
振り上げられたままの、左の前脚。
その前脚が、下りてくる。ゆっくりと。蜂蜜の中を進むように、のろのろと。
そして――首の後ろの、三本の線。
さっきまで焼けた鉄のように脈を打って明滅していた光が、ゆっくりになっていた。
明るくなって、暗くなって。そのあいだが、長い。
(……楔の働きが、鈍っとる)
ミレイユの言ったとおりだ。
聖域は、魔力の働きを遅らせる。体の中に打ち込まれた呪いの楔の働きも。
俺の体は、どうだ。
腕を動かそうとした。動く。いつもどおりに。
――聖剣の持ち主のリオと、魔力ではなく体で動いている俺には、聖域はほとんど効いていない。
効いているのは、魔力に操られた獣と、その首の楔だけだ。
「先生!」
リオが聖剣の柄を握ったまま叫んだ。
「今のうちに! 何か、するんですよね!?」
――何か、するんですよね。
この子は、何をするのかも知らないのに、聖域を運んできた。
俺が何かをすると、信じて。
(ほんまに、あほや)
「小僧。そのまま、剣を離すな」
「はい!」
***
獣の首の後ろを、見上げる。
三本の楔。
左の一本と、右の一本は、太い。真ん中の一本だけ、細い。
白霧の神殿の地下で、リュシーの首に見たのと、同じだ。
デザイナーが、直し忘れた一本。
――だが、リュシーは氷の中で動かなかった。
獣は、遅くなったとはいえ、まだ動いている。首がゆっくりと左右に揺れて、楔も明るくなっては暗くなる。
明るいときは締めつけを強めていて、暗いときは次の締めつけのために力を溜めている。
狙うなら、暗いときだ。締めつけが緩んだ一瞬に、真ん中の一本だけを。
大剣を、構える。
――右目が、見えない。
割れた兜の下から流れた血が、まぶたの上で固まりかけていた。
左目だけでは、楔の明るさの底が測れない。暗くなったと思った次の瞬間には、もう明るくなっている。
(……あかん。いつが底か、読めへん)
ブランシュの盗賊の弓の弦。白霧の神殿の地下の、リュシーの楔。
二度、やった。でも、二度とも相手は動いていなかった。
「――先生」
すぐそばで、リオの声がした。
「真ん中の線、光り方に、数があります」
楔からは、目を離さない。
「明るいのが、いち、に、さん。暗いのが、いち、に。……暗いほうの、二つ目が、いちばん暗いです」
――数えていたのか。
獣の爪の下で、聖剣の柄を握りしめたまま、この子は楔の光を数えていた。河原で、百回を数えながら振ったのと同じ声で。
「小僧。お前が数えろ」
「え……」
「いちばん暗いところで、叫べ。今だ、と。……いつ斬るかは、お前が決めろ」
リオが、息を呑む気配がした。
それから、聖剣の柄を握り直す音。
「……はい!」
左目で、真ん中の一本だけを見る。
どこを斬るかは、俺が決める。いつ斬るかは、あの子が決める。
(千分の一。髪の毛より細く)
「いち、に、さん」
ゆっくりになった世界の中で、リオの声が数を刻む。
楔が、暗くなっていく。
「いち――」
獣の首が、真ん中に戻ってくる。
「今です!」
大剣を、振った。
踏み込まない。
その場で、柄を握った手首だけで、刃を返す。
没技、黒閃。
力は、テストのときの、千分の一。
髪の毛よりも細い、黒い線が、ゆっくりになった世界の中を、走った。
獣の毛並みを、傷つけずにすり抜けて。
左の楔の横を、すり抜けて。右の楔の横を、すり抜けて。
真ん中の一本だけを。
――ぷつん。
***
音は、それだけだった。
獣の首の後ろで、真ん中の楔の光が、ふっと消えた。
一拍、遅れて。
左の楔が、支えを失ったようにぐらりと傾いて、消えた。
右の楔が、最後に、ひときわ強く光った。
最後のあがきのように。
――そして、消えた。
獣の動きが、止まった。
振り上げられたままの前脚が、空中でぴたりと静止している。
真っ赤だった目から、少しずつ赤い色が抜けていく。
獣の巨体が、縮み始めた。
山のような背中が、しぼんでいく。
人の腕ほどもあった爪が短くなり、四つ足が、二本の足と二本の腕に戻っていく。
砂ぼこりの中で、獅子の頭をした大男が膝をついた。
ガルムだった。
首には、獣王の牙の首飾りが、まだ揺れている。
背後で、どさりと音がした。
振り返ると、リオが聖剣の柄を握ったまま、砂の上に倒れていた。
目を閉じて、肩で浅く息をしている。
「小僧!」
膝をついて、リオの首筋に指を当てた。
脈は、ある。速いが、しっかりしている。
――聖域を、張り続けていたのだ。
獣の目の前で聖剣を突き立てて、楔が断たれるまで。剣を離すなと言われて、力の最後のひとかけらまで、柄を握りしめたまま。
(……ようやった。お前の『今』で、斬れたんや)
聖剣の白い光が、砂の上で薄れていった。
***
ガルムは、砂の上に膝をついたまま、自分の両手を見下ろしていた。
荒い息をついている。獅子の目は、もう、赤くはなかった。いつもの、金色の目だった。
やがて、顔を上げる。
目の前に、聖剣を握ったまま気を失っている少年がいた。
その横に、割れた兜の下から血を流して、大剣を杖にして立っている男。
ガルムの目が、俺の素顔を見た。
「……ヴァルガス」
かすれた声だった。俺にしか聞こえないくらいの、小さな声。
「なぜ……貴様が、ここに……」
答えずに、俺は大剣を杖にしたまま、ガルムを見下ろしていた。
膝が、今にも崩れそうだった。
――観客席の獣人たちは、黒鎧の魔将の顔を知らない。
ヴァルガスは百年以上、兜を脱がずに戦場に立ってきた男だ。この顔を知っているのは、魔王城の者と、記録の挿絵を読み込んだ賢者くらいだろう。
ガルムは、俺の顔と俺の後ろの観客席を、交互に見た。
抉られた石段。砕けた氷の壁の残骸。
そして、石段の上でノエルに抱きかかえられている、動かない大柄な男。
ガルムの顔が、凍りついた。
「我は……何を……」
闘技場は、静まり返っていた。
何千人もの獣人が、息をするのも忘れたように、砂の舞台を見下ろしている。
獣に堕ちて、戻ってきた獣王を。
その獣王の前で、聖剣を握ったまま倒れている勇者を。
そして――割れた兜の下から素顔を晒した、黒い鎧の男を。




