第44話 【ミレイユ視点】聖域の使い方
答え合わせは、終わった。
割れた鉄兜の下から現れたのは、記録の挿絵で見たとおりの顔だった。
黒い髪。鋭い目。頬に走る、古い傷跡。
百年以上前から魔王軍の先陣に立ち、今は五魔将の最古参に数えられる男。廃砦で、勇者に兜を割られたと記録されている男。
――黒鎧の魔将、ヴァルガス。
予想していた。鎧の魔力の質を調べたときから。黒い三日月の斬撃の話を聞いたときから。
予想していたのに、膝が少しだけ震えた。
賢者の端くれとして、魔将の記録を何年も研究してきた。
百年前の大戦で、黒鎧の魔将が一夜にして人間の砦を三つ落とした記録も読んだ。配下を道具としか見ず、倒れた兵を蹴り起こして前線へ送ったという記録も。
その男が、今、目の前で。
獣王の牙を大剣一本で受け止めて、砂の中に膝を沈めている。
――背中の後ろに、聖剣を突き立てた少年がいる場所へ、獣を近づけないために。
***
「先生……!」
隣で、リオが聖剣の柄を握りしめていた。
あの子には、顔が見えていないと思う。
陽炎と、砂ぼこりと、血で。それに、あの子は黒騎士の素顔を知らない。知っているのは、廃砦で戦った魔将の兜だけだ。
「ミレイユさん、先生が……!」
リオの声が、震えていた。
「助けに行かなきゃ! あのままじゃ、先生が……!」
「動いちゃ駄目」
自分でも、驚くほど冷たい声が出た。
「あの人は、あなたに、ここを動くなと言った。三歩の内側を守れ、と」
「でも……!」
「あの人が、なぜ、獣をここに連れてこようとしたのか、考えなさい」
リオが、言葉に詰まった。
――考えなさい。
自分に言ったのかもしれない。
黒鎧の魔将は、聖域のことを私から聞いた。
聖域の中に入れば、呪いの楔の働きが鈍る。
だから、獣をここへ連れてこようとした。
楔の働きを鈍らせて、何かをするために。
でも、何を。
杖の先の水晶の玉を、獣に向けた。
玉の中で、獣の魔力が真っ赤な嵐のように渦を巻いている。
その嵐の中心に、三本の黒い線が見えた。
獣の首の後ろ。
毛並みの下の皮膚に、深々と打ち込まれた三本の楔。
――左の一本と、右の一本は、太い。
真ん中の一本だけ、少し細い。
(……細い)
古い文献の、呪印の記述を思い出す。
三本の楔は、互いに支え合って命を縛る。
どれか一本を抜こうとすれば、残りの二本が締めつけを強める。だから、外からは解けない。
――でも、一本だけ細いなら。
支え合う力が、そこだけ弱いなら。
そこを先に断ち切れば、残りの二本は支えを失って崩れる。
黒鎧の魔将は、それを知っているのだ。
だから、狙っている。真ん中の、一本だけを。
でも、今の獣は暴れている。
聖域の外では、楔の働きも獣の動きも速すぎる。
聖域の中に入れば、遅くなる。
でも、獣は聖域に近づこうとしない。
(……本能で、分かってるんだわ。あの光が、自分の呪いを鈍らせるって)
獣は黒鎧の魔将を押し潰しながら、聖域の縁のほんの数歩外側で止まっていた。
***
――なら。
聖域のほうから、近づければいい。
「リオ」
「は、はい!」
「聖剣を、抜いて」
リオが、目を見開いた。
「え……でも、先生が、動くなって……」
「抜いて、もう一度、突き立てるの。獣の、すぐそばに」
私は杖で、砂の上の一点を指した。
獣の前脚の、すぐ横。
黒鎧の魔将が、膝をついている場所から、三歩。
「聖域は、聖剣を突き立てた場所から、三歩の範囲に広がる。……獣が聖域に来ないなら、聖域を、獣のところへ持っていけばいい」
リオの顔から、血の気が引いた。
あの場所は、獣の爪のすぐ届く距離だ。
突き立てに行けば、リオ自身が獣の目の前に立つことになる。
「三歩の内側に入れば、獣の動きは遅くなる。楔の働きも。……あの人は、そのとき、真ん中の楔を斬るつもりよ」
「真ん中の……楔?」
「説明している時間はないわ」
私は、リオの目を見た。
「ただ、これだけは分かる。あの人一人では、獣を聖域まで連れてこられない。あなたが、聖域を連れていくしかない」
リオは、獣とその下で膝をついている黒い鎧の背中を見つめていた。
あの子は、今、何を考えているのだろう。
自分を守ってくれた先生が、目の前で獣に押し潰されかけている。その先生のところへ、獣の爪の届く場所へ、自分から飛び込めと言われている。
――怖いはずだ。
膝が、また震えている。
でも、あの子は、目を閉じていなかった。
「……分かりました」
リオは、聖剣の柄を、両手で握った。
「先生のところへ、聖域を持っていきます」
砂から、聖剣を引き抜く。
白い光が、ふっと消えた。
リオが、走り出した。
獣と、黒い鎧の背中に向かって。
砂を蹴って。足で砂を固めることも忘れて。ただ、まっすぐに。
***
走っていく少年の背中を見ながら、私は杖を握りしめていた。
――賢者として、言うべきだっただろうか。
あなたの先生は、黒鎧の魔将ヴァルガスよ、と。廃砦であなたが兜を割った、あの魔将よ、と。
言わなかった。理由は、自分でもよく分からない。
ただ、記録の中のヴァルガスは、配下を道具としか見ない男だった。
今、目の前のヴァルガスは聖剣の勇者の背中を守るために、獣の牙の下で膝をついている。
百年分の記録と、目の前の一人の男。
どちらが本当なのか、今はまだ、分からない。
分からないことを、分かったふりをして口にするのは、賢者のすることではない。
「先生ーっ!」
リオの叫び声が、闘技場に響いた。
獣の真っ赤な目が、ぎょろりと動いて走ってくる少年を捉えた。
前脚が黒い鎧から離れて、少年のほうへ振り上げられる。
黒い鎧の魔将が、血に濡れた顔を上げる。
その目が、走ってくる少年を見て――大きく見開かれた。
怒っているようにも、驚いているようにも見えた。
でも、私には、それが。
――嬉しそうに、見えた。




