第43話 負けかける
砂の上に着地すると同時に、大剣を抜いた。
獣の爪が、子供たちの頭上に振り下ろされる。
その爪の側面を、大剣の腹で叩いた。
――重い。
腕が肩まで痺れる。ヒュドラの毒の息もセレスの氷の鉄槌も、これほど重くはなかった。
それでも、爪の軌道は、わずかに逸れた。
子供たちの頭の上を抜けて、観客席の石段をごっそりと抉り取る。
「逃げろ!」
低く、短く叫んだ。
子供たちが悲鳴を上げながら、観客席の上へ這い上がっていく。
獣の真っ赤な目が、俺を見た。
――来る。
***
獣の右の前脚が、横なぎに振られた。
大剣を立てて、受ける。
受けた瞬間、足が砂の上を三歩分滑った。
(なんやこれ……!)
ヴァルガスの体がどれほど頑丈でも、受け流す技が通じない相手と正面から押し合えば、いずれ削られるのは図体の小さいほうだ。テストで何百回もボス戦を見てきたから、嫌というほど分かる。
中庭の手合わせのときとは、比べ物にならない。
ゼクスの楔が、ガルムの力を何倍にも引き上げている。
獣は、止まらなかった。
左の前脚、右の前脚、牙、体当たり。
一つ受けるたびに腕が軋み、鎧の継ぎ目から嫌な音がする。
――それでも、まだ受けられる。
ヴァルガスの体は、五魔将最強だ。力では負けていても、受け流す技なら。
獣の右の前脚が、また来た。
今度は、払う。籠手の甲で、側面を。軌道を、指一本分だけずらす――。
ずれなかった。
前脚は、まっすぐに俺の胸を打った。
息が詰まり、体が砂の上を転がっていく。舞台の反対側の石の壁に叩きつけられて、ようやく止まった。
(……右肩が、開いてへん)
獣になっても、ガルムの体は、覚えていた。
柱を四本折って直した、打ち方の癖を。
右肩が開かないから、前脚の軌道はまっすぐだ。
まっすぐだから、力が一点に集まって、側面を払っても逸れない。
――あの癖を直させたのは、俺だ。
「……直させたの、俺やんけ」
口の中に、鉄の味が広がっていた。
***
立ち上がる。
獣は、舞台の真ん中で、こちらを睨んでいた。
首の後ろの三本の線が、脈を打つように赤く明滅している。
黒閃を、撃てば。
全力の黒閃なら、獣の巨体ごと断ち切れる。
だが、そうすれば、ガルムは死ぬ。
それに、獣の背後には観客席がある。斬撃が何千人もの獣人を巻き込む。
狙うのは、首の後ろの、真ん中の楔だけ。
髪の毛ほどの細さの、一本だけ。
――今の獣の動きでは、狙えない。
(三歩の内側に、連れていかな)
舞台の向こう、西の門の近くに、リオが立っていた。
聖剣を構えたまま、こちらを見ている。
その目が、迷っていた。黒騎士を助けに飛び込むべきか、それとも言われたとおりに待つべきか。
「――小僧! 剣を突き立てろ!」
叫んだ。
リオの目が、見開かれた。
それから、迷いが消えた。
聖剣が、砂の舞台に、深々と突き立てられた。
白い光が、刃から砂へ、波紋のように広がっていく。
リオの周り、三歩ほどの範囲の砂が、かすかに光を帯びた。
――聖域。
あそこまで、獣を連れていく。
***
獣が、跳んだ。
俺のほうへ。
山のような巨体が、真昼の太陽を遮って、影が落ちてくる。
横へ転がって、避ける。
獣の前脚が、さっきまで俺のいた場所の砂を、爆ぜるように吹き飛ばした。
走った。
聖域に向かって。リオのいる、西の門の方角へ。
獣が、追ってくる。
砂を蹴る音が、背中のすぐ後ろで響いている。
――あと、二十歩。
獣の爪が、背中をかすめた。
灰色のマントがずたずたに裂けて、砂の上に舞い散る。四枚目、決定。
――あと、十五歩。
獣の牙が、横から迫った。
大剣で受ける。足が止まる。牙と刃が噛み合って、火花が散る。
押し返せない。
じりじりと、膝が砂に沈んでいく。
(あかん……このままやと……)
獣の真っ赤な目が、すぐ目の前にあった。
獅子の顔は、もうガルムの顔ではない。理性のかけらもない、ただの獣の顔。
その瞳の奥で、何かが揺れた気がした。
「……ガルム」
思わず、名前を呼んでいた。
「お前の師は、何と言った。……負けを認められぬ者は、獣に堕ちる。そう言ったんだろう」
獣の牙が、ほんの一瞬、止まる。
「お前は、もう十分戦った。勇者に、膝をつかされた。……負けを、認めろ。認めて、戻ってこい」
獣の喉の奥で、唸り声が、震えた。
――届いたか。
その瞬間、獣の首の後ろの三本の線が、ひときわ強く光った。
獣の目から、揺らぎが消えた。
牙にさらに力がこもる。押し返される。膝が、完全に砂に沈んだ。
(……楔が、邪魔しとる)
負けを認めようとする心を、楔が押し潰している。
ゼクスの作った呪いは、ガルムが自分の意思で戻ってくることさえ許さない。
獣の前脚が、上から振り下ろされた。
大剣は、牙を受け止めるのに使っている。防げない。
前脚が、俺の頭を打った。
――パキン。
乾いた音がした。
廃砦で、聖剣に兜を割られたときと、まったく同じ音だった。
練習用の鉄兜が、真っ二つに割れた。
割れた兜の破片が、砂の上に転がっていく。
頭から生暖かいものが、額を伝って流れ落ちてきた。
視界が、半分、赤く染まる。
――素顔が、陽の光の下に、さらされていた。
***
獣の牙の向こう、聖域の縁で、リオが聖剣を握ったままこちらを見ていた。
距離は十歩。陽炎と舞い上がる砂ぼこりと、俺の額から流れる血で、顔ははっきりとは見えないはずだ。
リオの後ろで、もう一人。三つ編みの金色の髪の女が、杖を構えて立ち尽くしていた。
ミレイユの翡翠色の目が、俺の素顔を見ていた。
大きく、見開かれて。
研究対象を見る目ではなかった。答え合わせが、終わった目だった。
(……見られた)
獣が、牙をさらに押し込んでくる。
膝はもう、これ以上は沈まない。腕の感覚が、なくなりかけていた。
負ける。
生まれて初めて、本気で、そう思った。
廃砦でも白霧の神殿でも、負けたのは自分で選んだからだ。
負けることを、自分で決めて、負けた。
今は、違う。
――本当に、負ける。




