第42話 獣王の決闘
正午、大闘技場は獣人で埋め尽くされていた。
すり鉢状の観客席の、最上段まで。
狐の耳、豹の尾、熊の毛皮。色とりどりの獣人たちが肩を寄せ合って、砂の舞台を見下ろしている。太鼓が鳴り、角笛が吹き鳴らされ、歓声が真昼の太陽よりも熱く渦を巻いていた。
俺は、観客席の最前列、舞台の縁の石の壁のすぐ後ろにいた。
黒騎士の姿で。練習用の鉄兜に、灰色のマント。
少し離れた場所に、砂色のフードをかぶったセレスが座っている。
顔を覆った布の下で、たぶんもう溶け始めている。それでも、膝の上で組んだ指先から冷気を絶やさずにいた。
観客席の反対側、最上段の柱の陰を見上げる。
――いた。
黒い礼服に、片眼鏡。ゼクスが柱にもたれて、舞台を見下ろしている。俺の視線に気づいたのか、こちらに向かって軽く手を振った。
(……ほんまに、来とる)
太鼓の音が、ひときわ大きく鳴り響く。
舞台の東の門が開いた。
獅子の頭に、熊のような巨体。首には、太い獣の牙をつないだ首飾り。獣王ガルムが、砂を踏みしめて現れた。
観客席が、地鳴りのような歓声に包まれる。
西の門が開いた。金髪の少年が、聖剣を腰に下げて歩いてくる。後ろには、ノエルとボルドとミレイユ。三人は舞台の手前で足を止めて、リオだけを送り出した。
歓声の中に、どよめきが混じった。
獣王の半分ほどの背丈しかない少年が、たった一人で砂の舞台の真ん中へ歩いていく。
ガルムとリオが、向かい合った。
「――聖剣の勇者よ」
ガルムの声が、闘技場じゅうに響く。
「よく来た。我は、獣王ガルム。魔王軍五魔将が一人。……正々堂々、拳と剣で語り合おう」
「勇者リオです」
リオは、聖剣を抜いた。
「よろしく、お願いします」
リオが、頭を下げた。決闘の相手に、深々と。
観客席が、一瞬、静まり返る。
ガルムの獅子の目がわずかに見開かれ、それから、ガルムもゆっくりと頭を下げた。
「……よろしく頼む」
***
決闘が、始まった。
ガルムが、踏み込んだ。
魔王城の中庭で見たのと同じ、目で追えないほどの一歩目。右の拳が、まっすぐにリオへ飛ぶ。
リオは、懐へ飛び込んだ。
白霧の神殿で、巨人を相手に見つけた答え。
大きな相手には、懐が安全。
――だが、ガルムは、それを知っていた。
俺が、魔王城で見せたからだ。そして、宮殿の夜、ガルムはそれを盗んだと言った。
懐に入ったリオを、ガルムの肘が迎え撃った。
「――っ!」
リオが、横へ跳んだ。
肘が、さっきまでリオの頭があった空間を砕くように通り過ぎる。
観客席が、どっと沸いた。
ガルムは、止まらない。
肘、膝、拳、体当たり。宮殿の夜、俺に見せたのと同じ連撃。
リオは、それを一つずつ受けていく。
受けきれないものは、避けた。避けきれないものは、聖剣の腹で逸らした。
まっすぐではなく、ほんの少しだけ、遅らせた剣で。
(……昨日、二十本負けて覚えた剣や)
速い相手に、まっすぐな剣は当たらない。
だから、相手の動きを見てから、ほんの一拍だけ遅らせて合わせる。
リオの聖剣が、ガルムの拳の側面を叩いた。
拳の軌道が、指一本分だけずれる。
ガルムの体が、わずかに泳いだ。
――そこに、リオが踏み込んだ。
聖剣が、ガルムの脇腹を浅く斬りつけた。
獅子の毛並みに、赤い線が走る。
観客席が、悲鳴とも歓声ともつかない声に包まれた。
ガルムが後ろに跳んで、距離を取った。
脇腹の傷に、手を当てる。手のひらに、血がついていた。
ガルムは、その血をじっと見下ろす。
「……強いな、勇者」
低い声だったが、闘技場じゅうにはっきりと届いた。
「我の拳を、受け流したか。……ヴァルガスと、同じことをする」
リオの肩が、ぴくりと動く。
***
決闘は、半刻近く続いた。
ガルムの拳は、重い。リオは、何度も砂の上に転がされた。そのたびに、足で砂を固めて立ち上がった。
リオの剣は、浅い。でも、確実に、ガルムの体に傷を増やしていった。
太陽が、真上から少し西に傾いたころ。
ガルムの右の拳が、空を切った。
リオが、その拳の内側にほんの一拍遅れて滑り込んだ。
聖剣の柄が、ガルムの膝の裏を打った。
ガルムの巨体が、砂の上に片膝をつく。
――観客席が、静まり返った。
獣王が、膝をついている。
何千人もの獣人が、息を呑んでそれを見ていた。
リオは聖剣を構えたまま、ガルムを見下ろしていた。
追撃は、しない。ただ、静かに、待っていた。
負けを、認めてくれるのを。
ガルムは砂の上に膝をついたまま、うつむいていた。
肩が、大きく上下している。
――ガルム、認めろ。
俺は、石の壁を握りしめていた。
お前の師が言ったとおりに。負けを、認めろ。
ガルムの拳が、砂を、ぎりりと握りしめた。
「……我は」
低い、かすれた声。
「我は、負けられん……」
ガルムの首の後ろで、何かが赤く光った。
毛並みの下から、三本の線が浮かび上がってくる。
焼けた鉄のように、脈を打って、明滅しながら。
(――来た)
「魔王様を……守らねば……我が、負けたら……」
ガルムの声が、途中から人の声ではなくなっていった。
低い唸り声が、喉の奥から漏れる。
獅子の目が、真っ赤に染まっていく。
ガルムの体が、膨れ上がり始めた。
筋肉が、毛皮を押し広げる。
骨が、きしむ音を立てて伸びていく。熊のようだった巨体が、さらに倍に、三倍に。
観客席から、悲鳴が上がった。
「獣王様……!?」
「なんだ、あれは……!」
ガルムだったものが、砂の上で四つ足をついた。
獅子の頭に、山のような背中。爪の一本一本が、人の腕ほどもある。
首には、まだ、獣王の牙の首飾りが揺れていた。
――獣に、堕ちた。
獣が天を仰いで、咆哮する。
闘技場じゅうの空気が、震えた。
観客席の最前列の獣人たちが、耳を押さえてうずくまる。
獣の真っ赤な目が、ぎょろりと動いた。
目の前の、聖剣を構えた少年ではなく。
観客席の、ある一点を見ていた。
舞台の縁の、低い石の壁のすぐ向こう。
逃げ遅れた獣人の子供たちが、身を寄せ合って震えていた。
獣が、跳んだ。
「セレス!」
叫んだのと同時に、舞台の縁に氷の壁が立ち上がった。
透き通った、青白い壁。
獣の巨体が、壁に激突した。
壁に、蜘蛛の巣のようなひびが走った。
真昼の太陽の下で、壁の表面がみるみるうちに溶けて、湯気を上げ始める。
二撃目で、壁が砕けた。
獣の爪が、子供たちに向かって振り下ろされる――。
その前に、大きな影が子供たちの前に飛び込んでいた。
ボルドだった。大斧を盾のように掲げて、子供たちの前に立ちはだかる。
獣の爪が、大斧ごと、ボルドの体を薙ぎ払った。
鈍い音。ボルドの体が、観客席の石段に叩きつけられた。
大斧が二つに折れて、砂の上に転がった。
「ボルドさん!」
ノエルの悲鳴が、闘技場に響く。
ボルドは、動かない。
石段の上に、赤いものがゆっくりと広がっていった。
獣が、再び子供たちのほうへ首を向ける。
俺は、もう、石の壁を飛び越えていた。




