第41話 三歩の内側
決闘の前夜、宿の酒蔵で作戦を立てた。
樽の上に、セレスが氷で作った闘技場の模型が置かれている。
すり鉢状の観客席。真ん中の、砂の舞台。手のひらほどの大きさなのに、観客席の段の数まで正確だった。
「器用だな」
「暇だったの。この暑さで、ほかに何もできなかったから」
セレスは、模型の観客席の一角に小さな氷の粒をいくつか置いた。
「ここが、獣王の席。ここが、魔王軍の見届け役の席。……ゼクスが来るとしたら、たぶん、ここ」
舞台をはさんで、獣王の席の反対側。
観客席の最上段の、柱の陰になった一角だった。
「ゼクスは、来るのか」
「来るわ。あの男、自分の書いた山場は、必ず自分の目で見たがるもの。リュシーのときも、そうだった」
セレスの声が、硬くなった。
***
作戦は、こうだ。
決闘が始まる。
リオとガルムが、正々堂々と戦う。ここまでは、原作どおり。
ガルムが、負けそうになる。
そのとき、ガルムの体の中で育った楔が目を覚ます。ガルムは理性を失い、巨大な獣に変じる。
――ここからが、原作にない場面だ。
「獣になったガルムを、聖域の中に入れる」
俺は、模型の舞台の真ん中に小さな氷の剣を一本、突き立てた。
「勇者が、聖剣を砂に突き立てる。聖域の範囲は、そこから三歩。その中に、ガルムを誘い込む。中に入れば、楔の働きが鈍る。ガルムの動きも、遅くなる」
「誰が、誘い込むの」
「俺だ」
セレスが、俺を見る。
「黒騎士の姿で、舞台に降りる。ガルムを引きつけて、三歩の内側まで連れていく。そして、楔の動きが鈍ったところで、真ん中の一本を、黒閃で断つ」
「……リュシーのときと、同じ」
「同じだ。ただし、今度は、相手が動く」
模型の上で、氷の剣の周りに、指で小さな円を描いた。
「三歩の内側でなら、狙える。……たぶん」
セレスは、模型を見つめていた。
「私は、何をすればいいの」
「観客を守ってくれ」
模型の観客席と舞台のあいだの、低い石の壁を指さす。
「この壁は、獣になったガルムには、何の役にも立たない。暴れたガルムが観客席に向かったら、何千人も巻き込まれる。舞台の縁に、氷の壁を立ててほしい」
「この暑さの中で?」
「……ああ」
「闘技場は、屋根がないのよ。真昼の太陽の下で、何千人を守れる壁を、どれだけ保てるか」
セレスは、自分の手のひらを見下ろした。
指先から、冷気が細く頼りなく立ちのぼっている。
「……やってみるわ。でも、長くは持たない」
「長くなくていい。俺が、早く終わらせる」
***
酒蔵を出て、宿の屋根の上に登った。
砂漠の夜空が、頭の上いっぱいに広がっている。
遠くの都の真ん中に、大闘技場の黒い影が見えた。明日の正午、あそこで、すべてが決まる。
懐の伝声貝が、かすかに震えた。
『――ヴァルガス様』
ギギだった。
声が、いつもより小さい。夜中だから、気を遣っているのだろう。
『定時のご報告でございます。没座標の森は、変わりなく。リュシー様は、もうお休みになりました』
「そうか」
『それと、その……リュシー様から、ご伝言を、お預かりしております』
ギギが、こほん、と咳払いをした。
『「お姉ちゃんと、あったかい人へ。ガルムのおじさんを、助けてあげて」……とのことでございます』
――ガルムのおじさん。
「リュシーは、ガルムを知っているのか」
『はい。小さいころ、セレス様に連れられて、魔王城の中庭で、ガルム様に肩車をしてもらったことがあると。……大きくて、毛がもじゃもじゃで、ちょっと怖かったけど、優しかったと、申しておりました』
中庭で、柱を四本折るまで、律儀に拳の癖を直していた獅子。
小さな女の子を、肩車していたのか。
『それと、ギギからも、一つだけ』
「なんだ」
『……ギギは、昔、ガルム様の配下の獣人に、いじめられていたことがございまして』
ギギの声が、少しだけ揺れた。
『そのとき、ガルム様が、配下を叱ってくださいました。弱い者を虐げる者は、獣王の配下にふさわしくない、と。……ギギは、それきり、いじめられなくなりました』
「……」
『ガルム様は、お怖い方です。でも、獣ではございません。……どうか』
ギギは、そこで言葉を切る。
『どうか、お気をつけて、ヴァルガス様』
伝声貝の光が、ふっと消えた。
夜空を見上げると、雪の国で見たのと同じくらい、たくさんの星が出ていた。
(……みんな、ガルムを助けてほしいんやな)
魔王も、リュシーも、ギギも。
そして、たぶん、あの獅子自身も。
ガルムは、負けられないと思っている。
魔王軍の誇りのために。魔王を守るために。
でも、本当は――。
***
宿の屋根の端に、もう一つの人影が座っていた。
金髪の少年だった。
膝の上に聖剣を置いて、じっと大闘技場の影を見つめている。
(……また、眠れへんのか)
白霧の神殿の前夜も、こうだった。
声をかけずに、俺は少し離れた場所に腰を下ろす。
リオは俺に気づいて、驚いた顔をしてから、小さく笑った。
「先生も、眠れないんですか」
「……星を見に来ただけだ」
「そうですか」
しばらく、二人で黙って、星を見ていた。
「先生」
「なんだ」
「明日、ガルムさんが負けそうになったら……どうなるんでしょう」
リオは、大闘技場の影を見つめたまま言う。
「ミレイユさんが、言ってたんです。獣王の決闘は、負けを認めることまで含めて一つの儀式だって。だから、ガルムさんは、負けたら、ちゃんと負けを認める人なんだろうなって」
「……」
「でも、今日、先生が言ってた。悔しいのと、認めるのは、違うって。……ガルムさんは、魔王軍のために、負けられないって思ってるんですよね。そういう人が、負けを認めるのって、すごく難しいんじゃないかなって」
この子は、本当に、よく見ている。
「もし、ガルムさんが、負けを認められなかったら」
リオは、膝の上の聖剣をぎゅっと握った。
「僕は、どうすればいいんですか」
答えを、少しだけ探した。
全部は、話せない。
楔のことも、獣になることも。話せば、なぜ黒騎士がそこまで知っているのか、という話になる。
「……そのときは、聖剣を、砂に突き立てろ」
リオが、こちらを見た。
「ミレイユから、聞いているだろう。聖域のことは」
「は、はい。魔力の働きを、遅らせるって」
「何かが起きたら、迷わず突き立てろ。そして、そこから動くな。三歩の内側を、守れ」
「……三歩の、内側」
「あとは、俺が何とかする」
リオは、しばらく俺の鉄兜を見つめていた。
何かを聞きたそうな顔。
なぜ、何かが起きると思うのか。なぜ、黒騎士が何とかできるのか。
でも、リオは、何も聞かなかった。
「……分かりました」
代わりに、そう言って、うなずいた。
「三歩の内側を、守ります」
大闘技場の向こうの空が、白み始めている。




