第39話 聖域
「――飲ませることは、できるわ」
宿の酒蔵で、セレスは膝を抱えて座っていた。
夜明け前の、いちばん冷える時間。それでも、彼女の顔色は悪かった。
「呪印は、刻むものだと思われているけれど、本当は、楔を体の中に打ち込めればいいの。ゼクスが、リュシーの首に刻んだのは、それがいちばん確実だから。……でも、時間をかければ、飲み物に溶かして、少しずつ体の中で楔の形に育てることもできる」
「育つのに、どれくらいかかる」
「ひと月、くらい」
ガルムが葬式の宴で酒を飲んだのは、半月前だ。
「……決闘の日には、もう育ちきっている」
「たぶん」
セレスは、膝の上で拳を握りしめた。
「楔が育ちきれば、ゼクスの意思一つで、いつでも目を覚ます。……それに、リュシーのときと違って、体の中で育った楔は、宿主の感情に反応するの。怒りや、焦りや、負けたくないという気持ちに」
「負けそうになったとき、か」
「ええ。ガルムが負けを認められないと思った瞬間に、楔は勝手に目を覚ます。ゼクスが、何もしなくても」
――負けを認められぬ者は、獣に堕ちる。
ガルムの師の教えを、ゼクスは文字どおりの呪いに変えたのだ。
(悪趣味にも、ほどがある)
***
止める方法は、一つしか思いつかなかった。
白霧の神殿の地下で、リュシーの呪印を断ったときと同じだ。
三本の楔のうち、真ん中の一本だけを黒閃で断ち切る。
――ただし、リュシーは氷の中で動かなかった。
ガルムは、動く。それも、楔が目を覚ましたあとなら、理性を失った獣として。
熊ほどの巨体が、闘技場の砂の上を暴れ回る。
その首の後ろの、髪の毛ほどの細さの楔を、千分の一の黒閃で正確に断つ。
(……テストで言うたら、動き回るボスの、一ドットだけの当たり判定を狙うようなもんや)
しかも、観客席には何千人もの獣人がいる。
「……セレス。少し、出てくる」
「どこへ」
「勇者のところだ」
***
朝の光の中、リオたちの宿の裏庭に行くと、そこにはミレイユしかいなかった。
裏庭の真ん中に、聖剣が砂に突き立てられていた。
ミレイユが、その周りを杖の先の水晶の玉をかざしながら、ゆっくりと歩いている。
「あら、黒騎士さん。早いのね」
「……勇者は」
「ノエルとボルドと一緒に、朝の市場へ。私は、留守番ついでに、聖剣を借りて調べているの」
ミレイユは、水晶の玉を聖剣の周りの砂にかざした。
「ちょうどいいわ。見てて」
ミレイユは、杖の先から小さな火の玉を一つ、作り出した。
それを聖剣のすぐ横の砂に向けて、ふっと放つ。
火の玉は、聖剣の周り、ひと抱えほどの範囲に入った瞬間――ゆっくりになった。
まるで、蜂蜜の中を進むように。
火の玉は、のろのろと砂の上を這い進んで、聖剣の柄に触れる前にふっと消えた。
「……今のは」
「聖域、と呼ぶことにしたわ」
ミレイユは、杖を下ろす。
「リオから聞いたの。白霧の神殿で、氷の魔将の氷の槍に囲まれたとき、聖剣を床に突き立てたら、自分の周りだけ、氷が生まれるのが遅れたって。本人は、なんでそうなったのか、分からないって言ってた」
「……」
「調べてみたら、理由はすぐ分かったわ。聖剣の第二の封印が解けたからよ」
ミレイユは、聖剣の刃にそっと指を触れた。
「第一の封印が解けたとき、聖剣は、持ち主の剣を強くする力を得た。第二の封印が解けたとき、聖剣は、周りの魔力の働きを遅らせる力を得た。突き立てた場所を中心に、ひと抱えほどの範囲で」
「三つ目から、先は?」
「古い文献にも、書かれていないの。ただ、五つ目の欄にだけ、一語。『断つ』、と」
――断つ。
白霧の神殿の地下で、リュシーの楔に黒閃を通したときのあの感触が、指によみがえった。
――原作の、聖剣の成長システムだ。
封印が一つ解けるごとに、聖剣に新しい技が追加される。
二つ目は、確か、敵の魔法の詠唱を遅らせる補助技だった。ゲームの中では、地味な技としてあまり使われなかった。
でも、この世界では、使い方しだいで。
「魔力の働きを、遅らせる……」
「ええ。魔法の発動も、魔力の流れも、全部」
ミレイユは、翡翠色の目で俺を見た。
「――たとえば、体の中に打ち込まれた、呪いの楔の働きも、ね」
息が、止まった。
ミレイユは、何でもないことのように続ける。
「三本の線の呪印。魔力の楔で、命を縛る呪い。古い文献に、少しだけ記述があったわ。楔は、魔力で動いている。だから、聖域の中に入れば、楔の働きも、のろのろになる」
「……なぜ、俺にそれを言う」
「あなたが、知りたそうな顔をしていたから」
ミレイユは、くすりと笑った。
「兜で、顔は見えないけれどね」
***
ミレイユは、聖剣を砂から引き抜いた。
刃についた砂を、布で丁寧に拭う。
「ところで、黒騎士さん」
声の調子が、少しだけ変わった。
「私、魔王軍の魔将の記録を、ずっと研究していたの。百年前の記録から、最近の記録まで。どの魔将が、どんな技を使い、どんな魔力を持っていたか」
布で刃を拭う手が、止まらない。
「ブランシュの夜、ヒュドラを両断した、黒い三日月の斬撃。リオから聞いた話と、町の人たちの話を、つなぎ合わせてみたの」
「……」
「記録の中に、一つだけ、よく似た技があったわ。百年以上前から、黒鎧の魔将ヴァルガスが使えると言われていた技。でも、誰も、実際に使うところを見たことがない技」
――没技、黒閃。
この世界でも、伝説だけが残っていたのか。
「それと、あなたの鎧の魔力の質。廃砦で、勇者に兜を割られたっていう、黒鎧の魔将の記録と、ぴったり一致するのよ」
ミレイユは、刃を拭い終えた聖剣を鞘に収めると、俺の鉄兜の隙間を見つめた。
裏庭に、朝の砂漠の風が吹き抜けていった。
逃げるか。
否定するか。
どちらも、この女には通じない気がする。
「……それで、どうする」
俺は、それだけ言った。
「勇者に、言うか」
「言わないわ」
ミレイユは、あっさりと言った。
「少なくとも、決闘が終わるまでは。……黙っていてあげる」
「……なぜだ」
「だって、あなた、リオを守っているもの」
ミレイユは、杖を肩に担いだ。
「ブランシュでも、雪の国でも。理由は分からないけど、黒鎧の魔将が、聖剣の勇者を守っている。賢者として、こんなに面白い研究対象はないわ。……決闘のあと、ゆっくり聞かせてもらう」
ミレイユは、裏庭の出口へ歩き出した。
三つ編みが、背中で揺れる。
「ああ、それと」
振り返らずに、言った。
「聖域の範囲は、ひと抱えほど。リオが聖剣を突き立てた場所から、半径で三歩くらいよ。……何かを狙うなら、その中で狙うことね」
裏庭に、俺一人が残される。
(……あの賢者、何手先まで読んどるんや)
原作では、ただの頼もしい仲間だった。
味方にしても、敵にしても、厄介な女だった。




