第38話 【ガルム視点】獣に堕ちる
師が死んだのは、我が十五のときだった。
砂嵐の夜。
宮殿の寝所で、師は我の手を握ったまま、静かに息を引き取った。病だった。どれほど強い獣王も、病には勝てない。
最期に、師は言った。
――ガルム。負けを認められぬ者は、獣に堕ちる。
――はい、師よ。
――お前は、強い。だからこそ、覚えておけ。強い者ほど、負けを認めるのが難しい。
砂漠で行き倒れていた子供の我に、師は水筒の最後の一口を含ませ、三日三晩背負って砂嵐の中を歩き続けたという。後になって、宮殿の古い侍女から聞かされた話だ。
師は、そのことを、一度も自分の口からは語らなかった。強い者は、自分のしたことを語らない。我は、それで覚えた。
我は師の手を握り返してうなずいたが、そのときは、意味がよく分からなかった。
我は、負けたことがなかったからだ。
***
師は、一度だけ、負けたことがある。
若いころ、魔王様と手合わせをして。
師は、負けを認めた。それから魔王様と盟を結び、獣人の国を、魔王軍の側につけた。
なぜ負けを認めたのか、一度だけ聞いたことがある。
――あのお方の拳には、迷いがなかった。誰かを守るための拳だ。わしの拳は、ただ勝つための拳だった。だから、負けた。
――負けて、悔しくなかったのですか。
――悔しかったとも。だが、負けを認めたから、わしは獣にならずに済んだ。
師は、笑っていた。負けた話をしているのに、どこか、誇らしそうに。
***
その魔王様の軍が、今、負け続けている。
ヴァルガスが、勇者に兜を割られた。
――死の淵から戻ってきたが、あれは、もう昔のヴァルガスではない。
セレスが、勇者に討たれた。
氷の巨人ごと、砕け散ったと聞いた。
五魔将のうち、二人。
魔王様は、何もおっしゃらない。
帳の奥から、いつもと同じ声で、命令を下されるだけだ。
だが、我には分かる。師の墓の前で、一晩じゅう座っておられた方だ。部下が討たれて、何も感じないはずがない。
――我が、止めねばならん。
***
今夜、ヴァルガスが宮殿に来た。
手合わせを、もう一度と言って。
魔王城の中庭で打ち合ったときよりも、あいつは、ずっと手加減をしていた。黒い大剣も抜かず、魔力も込めず、ただ我の拳を受け続けていた。
まるで、我の拳の重さを、確かめているかのように。
そして、最後に言った。
――もし、お前が負けそうになったら、負けを認めろ。
師と、同じことを言う。
昔のヴァルガスは、そんなことは言わなかった。
負けるくらいなら死ね。それが、あいつの口癖だった。
何が、あいつを変えたのだろう。
死の淵から戻ってきた、というだけで。
***
寝所に戻ると、枕元に硝子の小瓶が置いてあった。
ゼクスが、よこしたものだ。
獣王の血を濃くする薬。もしものときのための、お守り。
我は、小瓶を手に取った。
赤黒い液体が、揺れている。
硝子の表面に彫られた三本の線が、灯りを反射して光った。
飲むつもりはない。薬に頼って勝っても、それは我の勝ちではない。師が見ていたら、何と言うか。
小瓶を、枕元に戻した。
――そのとき、首の後ろが、ちりと痛んだ。
手をやる。何もない。毛並みの下の皮膚が、熱を持っているような気がするだけだ。
ここのところ、ときどき、こうなる。
葬式の宴会の翌朝から、だったか。セレスの死を悼んで、配下たちと夜通し飲んだ。ゼクスが、自ら酒を注いで回っていた。獣王殿には、特別な一杯を、と言って。
あの酒は、旨かった。少し、鉄の味がした気もするが。
首の後ろの痛みは、怒ったときに強くなる。
勇者のことを考えたとき。ヴァルガスやセレスが負けたことを考えたとき。魔王軍の誇りが、地に落ちたことを考えたとき。
そのたびに首の後ろが熱くなって、目の前が少しだけ赤く染まる。
拳に、いつもより力が入る。柱を、一撃で砕けそうな気がする。
――悪くない。
そう思った自分に、少しだけ、ぞっとした。
***
寝台に、横になった。天井を見上げる。
砂漠の夜風が、寝所の小さな窓からひんやりと流れ込んでくる。
三日後。大闘技場で、聖剣の勇者と、一騎打ち。
我は、勝つ。
勝たねばならん。魔王様のために。師が盟を結んだ、魔王軍のために。
――負けを認められぬ者は、獣に堕ちる。
師の声が、耳の奥で聞こえた。
だが、師よ。
今の我が負けを認めれば、誰が魔王様を守るのです。
首の後ろが、また、ちりと痛んだ。
我は、目を閉じた。闇の中に、勇者の顔を思い浮かべる。聖剣を握った、まだ幼さの残る少年の顔を。
――あの小僧を、砂の上に這いつくばらせる。
そう考えた瞬間、首の後ろが、焼けるように熱くなった。
我は、気づかなかった。
闇の中で、毛並みの下の皮膚に三本の赤い線が、うっすらと浮かび上がっていたことに。
その線が眠りに落ちるまで、ずっと、脈を打つように明滅していたことに。




