第37話 夜の宮殿
砂漠の夜は、昼とは別の世界だった。
日が沈むと、熱がすっと引いていく。
空には、雪の国で見たのと同じくらい、たくさんの星が出ていた。都の家々の平らな屋根の上で、獣人たちが毛布にくるまって、涼しい夜風を楽しんでいる。
獣王の宮殿は、都の北の高台に建っていた。
砂色の石の壁に囲まれた、平屋の大きな建物だ。
壁の上を、槍を持った獣人の兵がゆっくりと巡回している。
(右回りに、四十歩で角。角で十数えて立ち止まる)
テストのときと、同じ巡回路だった。
見回りの兵の動きは、プログラムで決められた順路を正確になぞっている。
――いや。
この世界の兵は、プログラムで動いているわけではない。それでも同じ順路を歩いているのは、たぶん、それがいちばん効率のいい見回り方だからだ。開発者が、ちゃんと考えて作った順路なのだ。
「行くわよ」
隣の暗がりで、セレスが囁いた。
砂色の外套のフードを、目深にかぶっている。
夜になって、だいぶ元気を取り戻していた。指先から、細い冷気が立ちのぼっている。
「寝所は、宮殿の東の端から、地下へ降りる階段の先だ」
「分かってる。三回聞いたわ」
「巡回の兵は――」
「右回りに四十歩、角で十数える。四回聞いたわ」
セレスは、ふっと笑った。
「心配性ね、あなた」
「……」
「大丈夫よ。私、ブランシュの地下で、あなたに気づかれずに背後を取ったでしょう」
言い返せない。
セレスは巡回の兵が角で立ち止まった瞬間に、壁際の影に溶けるように消えていった。
***
俺は、正面の門から入った。
黒騎士の姿ではない。黒鎧のヴァルガスとして。割れた兜の代わりに、何もかぶらずに。
門番の獣人が、俺の顔を見て飛び上がった。
「ヴァ、ヴァルガス様!? なぜ、ザハルに……!」
「魔王様の命で、勇者の監視に来ている。ガルムに会いたい」
「は、はいっ! 獣王様は、中庭で稽古中でございます!」
門番は、慌てて道を空けた。
中庭は、宮殿の真ん中にある。
四方を回廊に囲まれた、砂を敷きつめた広い庭だ。真ん中に、一本の太い石の柱が立っている。
その柱に、ガルムが拳を打ち込んでいた。
ずん。ずん。ずん。
魔王城の中庭と、同じ音だった。
月明かりの中で、獅子の鬣が、汗で光っている。
「……ヴァルガス」
ガルムが、拳を止めて振り返った。
「なぜ、ここにいる」
「勇者の監視だ」
「魔王様の命か」
「ああ。……それと、お前の拳を、もう一度受けておきたくてな」
ガルムの目がわずかに見開かれ、それから獅子の口元が、にやりと吊り上がった。
「面白い。決闘の前の、最後の稽古相手が、貴様とはな」
***
手合わせは、魔王城のときよりも長く続く。
ガルムは、俺が懐に飛び込む技を、もう覚えていた。
懐に入ろうとすると、肘で迎え撃ってくる。肘をかわすと、膝が来る。膝をかわすと、また拳が来る。
(盗ませてもらうって、言うてたもんな)
息が、上がってきた。ヴァルガスの体は強い。それでも、手加減しながら、ガルムの本気を受け続けるのは骨が折れる。
――手加減しながら。
そう、俺は今、手加減している。黒閃も使わず、魔力で拳を強めることもせず。
ガルムは、たぶんそれに気づいていて、何も言わずに打ち込み続けていた。
四半刻ほど打ち合ったところで、ガルムがふっと拳を下ろす。
「……少し、休む」
ガルムは、柱の根元に腰を下ろした。
俺も、その隣に座る。
回廊の陰から、獣人の侍女が水の入った壺を持ってきた。
ガルムは、壺を受け取ると、半分ほどを一気に飲み干した。
懐の伝声貝が、まだ震えない。
セレスは、今、寝所にいるはずだ。
(もう少し、引き止めな)
「ガルム」
「なんだ」
「三日後の決闘、勝てると思うか」
ガルムは、壺を下ろした。
「勝つ」
「勇者は、強くなっている。セレスを倒した」
「知っている。だから、勝たねばならん」
ガルムは、夜空を見上げる。
「ヴァルガス。我は、魔王軍の、最後の盾にならねばならん」
「……最後の盾」
「貴様が負け、セレスが負けた。残る五魔将は、我と、まだ誰も顔を知らぬ四番手だけだ。四番手が何者か、魔王様は何もおっしゃらない」
ガルムの声が、低くなる。
「我が負ければ、魔王軍は、もう誰も勇者を止められん。勇者は、魔王様の前に立つ。そうなれば――」
ガルムは、言葉を切った。
「……魔王様は、我の師の友だった。師が死んだとき、魔王様は、たった一人で師の墓の前に、一晩じゅう座っておられた。あの方を、勇者の剣の前に立たせるわけにはいかん」
帳の奥の声を思い出した。
――ガルムは、我の古い友だ。死なせるな。
(……お互いに、相手を守ろうとしとるんか)
魔王は、ガルムを死なせたくない。
ガルムは、魔王を勇者の前に立たせたくない。
そして、その両方の真ん中に、ゼクスの小瓶がある。
「ガルム」
「なんだ」
「お前の師は、負けを認められぬ者は、獣に堕ちると言ったんだったな」
「……ああ」
「もし、三日後、お前が負けそうになったら」
ガルムが、こちらを見た。
「負けを、認めろ」
中庭に、沈黙が落ちる。
ガルムの獅子の目が、俺を見つめていた。
怒っているようには見えなかった。ただ、何かを確かめるように。
「……貴様、本当に変わったな」
ガルムは、ふっと息を吐いた。
「昔の貴様は、我に、負けるくらいなら死ねと言った男だ」
「……」
「死の淵から戻ると、人は、そこまで変わるものか」
その答えを持っているのは、本物のヴァルガスだ。俺ではない。
懐で、伝声貝がかすかに震えた。
***
宮殿を出て、都の路地裏で、セレスと落ち合った。
セレスはフードを脱いで、壁にもたれている。
手のひらの上に、硝子の小瓶を一つ、載せている。
「すり替えは、うまくいったわ」
セレスは、小瓶を俺に差し出した。
「寝所の枕元に、あなたの言ったとおり置いてあった。中身を、宿の酒蔵から持ってきた葡萄酒と入れ替えて、元の場所に戻してきた。色が似ているから、気づかれないはずよ。これが、本物の中身」
受け取った小瓶の中で、赤黒い液体がどろりと揺れた。
「……よくやった」
「でも」
セレスの声が、曇る。
「おかしいの」
「何がだ」
「すり替えるとき、中身の匂いを、確かめたの。呪印の気配がないか」
セレスは、小瓶を見つめた。
「――この小瓶、ただの葡萄酒よ」
夜風が、路地を吹き抜けていく。
「呪印の冷たさも、魔力の気配も、何もない。赤黒く見えるのは、色の濃い葡萄酒に、何かの染料を混ぜてあるだけ。三本の線に見えたのは、硝子の表面に彫った、ただの模様」
セレスは、小さくため息をついた。
「私、葡萄酒を、葡萄酒とすり替えてきたのね」
手の中の小瓶が、急に軽く感じられた。
(……囮か)
ゼクスが、葬式の大広間で、魔物たちの目の前で手渡した小瓶。
俺に見せるために。俺に、この小瓶を追わせるために。
じゃあ、本物は、どこにある。
――あの葬式の宴会で、ガルムは、たくさん酒を飲んでいた。
配下たちと、セレスの死を悼んで。
「セレス」
「なに」
「呪印は、飲ませることができるか」
セレスの顔から、血の気が引いた。
路地の向こうの宮殿の方角から、ずん、ずんと柱を打つ音がまだ聞こえていた。




