第35話 溶ける魔将と賢者の目
『――砂漠?』
伝声貝の向こうで、セレスの声が明らかに一段低くなった。
「ああ。南の獣人国、ザハルだ。ガルムが勇者を待つ」
『……そう』
しばらくの、沈黙。
『行くわ』
「来なくていい。お前は、死んだことになっている。それに、砂漠は――」
『手伝うって、言ったでしょう』
即答だった。
『リュシーを助けてもらった借りが、まだ返せていないもの。……それに、ガルムが持っていった小瓶。三本の線が浮いていたって、あなた言ったわよね』
「ああ」
『リュシーの首にあったのと、同じ形なら。あの呪印の冷たさは、私がいちばんよく知っている』
それを言われると、断れない。
『リュシーは、ギギに預けていくわ。あの子、ギギのこと、すっかり気に入ってしまって。……じゃあ、明日の朝。没座標の森で』
***
翌朝、セレスはフードを目深にかぶって現れた。
砂色の、厚手の外套。顔の半分を、布で覆っている。
銀色の髪は、フードの奥にきっちりとまとめて隠してあった。
「どう?」
「……砂漠の旅人に見える」
「死んだ魔将には?」
「見えない」
セレスは、満足そうにうなずく。
森の外れで、ギギとリュシーが見送りに出てきた。
「お姉ちゃん、いってらっしゃい」
「いってくるわ。ギギの言うことを、よく聞くのよ」
「ギギが、私の言うことを聞くんだよ」
「リュシー様……!」
ギギが、丸眼鏡の奥で情けない顔をする。
セレスは、妹の髪の左右の高さが違う結び目を、そっと撫でた。
***
ボツの背に乗って、山脈を越え、南へ。
昼を過ぎるころには、眼下は一面黄色い砂の海になっていた。
暑い。
ボツの背中の上でも、砂の照り返しが下から顔を炙ってくる。
黒鎧の表面が、触れないくらいに熱くなっていた。ヴァルガスの鎧は寒さには強いが、暑さにはそこまで強くないらしい。
(設定資料に、耐熱性能の記載はなかったな)
背中の後ろで、セレスが静かだった。
「セレス」
「……なに」
「大丈夫か」
「平気よ」
声に、張りがない。
振り返ると、セレスはフードの奥で、目を半分閉じていた。
顔を覆った布が、汗で――いや、汗ではない。
溶けた水で、濡れていた。
「……お前、溶けてないか」
「溶けてないわ」
「布が、濡れている」
「……溶けてないわ」
セレスの指先から、ぽたり、と水滴が落ちた。
ボツの鱗の上で、じゅっと音を立てて蒸発する。
(溶けとる)
氷の一族は、寒さには強い。
当たり前だが、暑さにはとことん弱い。
「降りるぞ。日陰で休む」
「いらないわ。ザハルまで、あと少しでしょう」
「あと、半日はかかる」
「……平気よ」
セレスの頭が、こくりと前に傾いた。
俺の背中に、額がぶつかる。
黒鎧の背中が、じゅう、と音を立てた。
「あつっ……!」
セレスが、飛び上がるように顔を離した。
額を押さえて、涙目になっている。
「なんで、あなたの鎧、こんなに熱いの……!」
「黒いからだ」
「脱いで」
「脱げん」
セレスは恨めしそうに、俺の背中をにらんだ。
***
結局、砂丘の陰の岩場で半刻休むことになった。
セレスは岩の陰の一番涼しい場所に、ぐったりと横たわっていた。
指先から小さな氷の粒を作っては、自分の額に乗せている。乗せた端から、溶けていく。
「五魔将のうち、氷の魔将と黒鎧の魔将が、砂漠でへばっているなんて。……ゼクスが見たら、笑うわね」
「笑わせておけ」
ボツが、岩の陰に首を突っ込んできた。
大きな翼を広げて、セレスの上に影を作る。
「……ありがとう、ボツ」
セレスが、ボツの鼻先を撫でた。
ボツは、のっぺりした尻尾をゆっくりと一度だけ振る。
尻尾の起こした風が砂を巻き上げて、俺の顔に吹きつけた。
(……なんで俺だけ)
セレスが、くすりと笑う。
夕暮れ近く、砂の海の向こうに都が見えてきた。
砂色の城壁の内側に、平らな屋根の家々がびっしりと並んでいる。
都の真ん中には、ひときわ巨大な、円形の建物。
――大闘技場。
原作の三章で、勇者と獣王が決闘する舞台だ。
テストのときの観客は、ただの背景だった。動かない、色のついた絵だった。
今、都の門の前には狐の耳の商人や豹の尾の兵士が、本物の声で笑ったり怒鳴ったりしながら列を作っている。
城壁の上に、獣人の言葉を書いた大きな布が垂らされていた。
「……大闘技祭、まもなく開催。そして――獣王ガルム、聖剣の勇者に、決闘を申し込む」
セレスが、布の文字を読み上げた。
(……観客の当たり判定、確かめとかなあかんな)
今度は、背景ではないのだから。
***
ザハルの都に入って、二日目の昼。
黒騎士の姿で、市場を歩いていた。
練習用の鉄兜に、灰色のマント。マントは、砂漠用に薄いものを買い直した。三枚目だ。
セレスは、宿の地下の酒蔵にこもっている。
砂漠の宿で涼しいのはたいてい地下の酒蔵でございます、と伝声貝の向こうでギギが妙に詳しく教えてくれた。
(あのゴブリン、何者なんや)
市場の角を曲がったところで、聞き覚えのある声。
「先生!」
――予想はしていた。
していたが、心の準備はまだできていなかった。
人混みをかき分けて、金髪の少年が走ってくる。
日焼けして、鼻の頭が赤くなっていた。腰の聖剣は、相変わらず白く光っている。
「先生、やっぱり来てくれたんですね! ザハルにも!」
「……仕事だ」
「雪かきですか?」
「砂かきだ」
リオはきょとんとして、それから吹き出した。
「砂漠に、砂かきの仕事なんてあるんですか?」
「……ある」
リオの後ろから、ノエルとボルドが追いついてきた。
ノエルは白い法衣の上に、日よけの布を頭からかぶっている。
俺を見ると、一瞬だけ顔を赤くして、すぐにそっぽを向いた。王都の時計塔の件を、まだ引きずっているらしい。
ボルドは相変わらず無言で、俺の足元を見ていた。
そして、もう一人。
「――ふうん。これが、リオの言ってた『先生』?」
涼しい声だった。
ボルドの陰から、細身の女がすっと前に出てくる。
深緑の旅装に、一本の三つ編みにした長い金色の髪。髪の間から、尖った長い耳が覗いていた。
エルフだ。
手には、背丈ほどもある木の杖。先には、水晶の玉が嵌め込まれている。
翡翠のような緑色の目が、俺の鎧を上から下まで、舐めるように眺めていた。
(――ミレイユ)
原作の三章で、勇者の仲間になるエルフの賢者だ。
毒舌で、分析好きで、仲間の戦い方にいちいち点数をつける。
――俺と、同じ癖だ。
「紹介します、先生! ミレイユさんです。ザハルの図書館で会って、一緒に旅をしてくれることになったんです。すごく物知りで、聖剣のことも、いろいろ教えてくれて」
「物知りなんじゃないわ。あなたたちが、物を知らなすぎるだけ」
ミレイユは、さらりと言った。
ノエルが、むっとした顔になる。ボルドは、聞こえないふりをしていた。
(……原作どおりの口の悪さや)
「はじめまして、黒騎士さん。賢者のミレイユよ」
ミレイユは杖を軽く持ち上げて、俺に挨拶する。
でも、その目は、鎧の継ぎ目を一つずつ数えているようだった。
「リオから、話はいろいろ聞いているわ。ブランシュで、ヒュドラを倒すのを手伝ってくれたとか。雪の国で、氷の魔将の倒し方を教えてくれたとか」
「……」
「ずいぶん、魔将のことに詳しい傭兵さんなのね」
ミレイユは、一歩、俺に近づいた。
杖の先の水晶の玉が、俺の鎧に向けてかすかに光る。
「それに――その鎧、魔力の流れが、人間のものじゃないわね」
市場の喧噪が、一瞬、遠くなった気がした。
(いきなり、核心かよ)
リオが、首をかしげる。
「人間のものじゃない……?」
「普通の鎧は、魔力を通さないの。魔法のかかった鎧でも、外から魔力を流し込んで、表面を固めるだけ」
ミレイユは、水晶の玉を俺の胸当てに近づけた。
玉の中で、黒い霧のような光が渦を巻いている。
「でも、この鎧は違う。鎧の内側から、魔力が湧き出している。まるで、鎧そのものが、生きているみたいに」
ヴァルガスの黒鎧は、魔将の力そのものと結びついている。
脱げば、ただの大柄な男。つまり、この鎧は、魔将の体の一部なのだ。見る者が見れば、分かる。
「――あなた、どこで、その鎧を手に入れたの?」
リオも、ノエルも、ボルドも、俺を見ていた。
拾った、買った、もらった。どれを言っても、この女には通じない気がした。
この世界の人間は、ゲームの画面よりもずっと細かいところまで見ている。
「……遺跡で、拾った」
「遺跡で」
「砂漠の、遺跡だ」
「ふうん」
ミレイユは、まったく信じていない顔でうなずいた。
「じゃあ、その遺跡の場所、今度教えてもらおうかしら。魔力の湧き出す鎧が落ちている遺跡なんて、賢者として、ぜひ調べてみたいもの」
「……」
「ふふ。冗談よ」
ミレイユは、くるりと背を向ける。
三つ編みが、肩の上で跳ねる。
「リオ、行くわよ。大闘技祭の前に、聖剣の調べ物を済ませたいの」
「あ、はい! 先生、また来ます! 大闘技祭、見に来てくださいね!」
四人が、市場の人混みの中に消えていく。
最後に、ミレイユだけが一度だけ振り返った。
翡翠色の目が、人混み越しに俺を見ていた。
――逃がさない、と言っているような目。
(……厄介なのが、仲間になったな)
原作では、頼もしい仲間だった。
敵として向き合うと、こんなに厄介だとは思わなかった。




