第34話 師の教え
中庭の真ん中で、ガルムと向かい合った。
武器は、使わない。
ガルムがそう言った。獣王の手合わせは、拳でやるものだ、と。
大剣を地面に突き立てて、籠手の拳を握る。
ガルムの拳は、俺の頭ほどの大きさがあった。
中庭の回廊に、いつの間にか配下の魔物たちが集まってきていた。
オークに、トロルに、スケルトンに。その一番前で、ギギが帳面を胸に抱いて、心配そうにこちらを見ている。
「――参る」
ガルムが、踏み込んだ。
速い。
熊のような巨体なのに、踏み込みの一歩目が、目で追えないほど速い。
右の拳が、まっすぐに飛んでくる。
籠手の甲で、側面を払う。
一度目の葬式の大広間で、こいつの拳をいなしたときと、同じ動きだ。軌道を、指一本分だけずらす――。
――ずれなかった。
払おうとした籠手が、拳の勢いに押し戻された。
拳が、俺の頬をかすめて、背後の空気を切り裂く。風圧だけで、首が持っていかれそうになった。
(重い……!)
ガルムの拳は、葬式の大広間でいなしたときよりも明らかに重く、それでいて速さはまったく落ちていなかった。受けるたびに、籠手の内側で指の骨がきしむような感覚があった。
右肩が開かないぶん、拳の力が、一点に集まっている。
前は、側面を軽く押すだけで逸れた。今は、押す力が、拳の芯に届かない。
ガルムは、止まらなかった。
左の拳。右の膝。体当たり。間を置かずに、次々と打ち込んでくる。
一つ受けるたびに、腕が痺れた。
足が、少しずつ後ろに下がっていく。
「どうした、ヴァルガス!」
ガルムが吠えた。
「死の淵から戻って、拳が鈍ったか!」
(鈍ったんやない。お前が強なったんや)
しかも、強くした原因の半分は、俺だ。
右肩の癖を指摘したのは、俺だ。
ガルムは、それを律儀に直した。柱を四本折って。
――自分で自分の首を絞めた。
テストで報告したバグが修正されたら、別の場所で新しい不具合を生んだときと、同じ気分。
ガルムの右の拳が、また来た。
今度は、払わなかった。
半歩、内側に踏み込む。拳の軌道の内側、ガルムの懐へ。
大きな相手には、懐が安全。
――白霧の神殿で、リオが自分で見つけた答えだ。
ガルムの拳が、俺の肩の上を抜けていく。
懐に入った俺の拳が、ガルムの腹に軽く触れた。
当てただけだ。打ち込んではいない。
ガルムの動きが、止まった。
中庭が、静まり返った。
回廊の魔物たちが、息を呑んでいる。ギギが、帳面で顔を半分隠していた。
ガルムは、自分の腹に当てられた俺の拳をしばらく見下ろしてから、拳を下ろした。
「……一本、だな」
「打ち込んではいない」
「打ち込めた。それで十分だ」
ガルムは、大きく息を吐く。
「今の動きは、誰に習った」
「……勇者から、盗んだ」
ガルムの目が、わずかに見開かれた。
「勇者から?」
「白霧の神殿で、あの小僧がセレスの巨人と戦うのを、遠くから見ていた。大きな相手の懐に、迷わず飛び込んでいった」
ガルムは、黙り込んだ。
低い声で、笑った。
「……ふ。ふはは。勇者から盗んだ、か」
笑い声が、中庭に響く。
「面白い男になったな、ヴァルガス。昔の貴様なら、たとえ盗んでも、盗んだとは言わなかった」
***
手合わせのあと、ガルムは中庭の端に腰を下ろした。
俺も、その隣に座る。
配下の魔物たちはギギに追い払われて、それぞれの持ち場に戻っていく。
「我には、師がいた」
ガルムが、ぽつりと言った。
「先代の獣王だ。我の父ではない。砂漠で行き倒れていた子供の我を拾って、育ててくれた」
葬式の大広間で、ガルムはそう言った。
――我が師以外に、それを指摘されたのは初めてだ。
「師は、強かった。だが、一度だけ、負けたことがある。若いころの魔王様と、手合わせをしてな」
「……魔王と」
「師は、負けを認めた。それから、魔王様と盟を結んで、獣人の国を魔王軍の側につけた」
ガルムは、自分の拳を見下ろした。
「師は、よく言っていた。――負けを認められぬ者は、獣に堕ちる、と」
獣に、堕ちる。
「力だけを求めて、負けを認めず、ただ勝つことだけを考える者は、いずれ理性を失う。そうなれば、もう王ではない。ただの獣だ、とな」
ガルムの声は、静かだった。
原作の三章で、ガルムが勇者に負けたあと、負けを認めて去っていく理由。
――それは、この教えだったのだ。
設定資料には、書いていなかった。
先代の獣王は、名前しか出てこない。
「だがな、ヴァルガス」
ガルムが、顔を上げた。
獅子の目に、硬い光が宿っている。
「今の魔王軍は、負けすぎた」
「……」
「貴様が負けた。セレスが負けた。五魔将のうち、二人が、たかが人間の小僧一人に。……魔王様は、何もおっしゃらない。だが、魔王軍の誇りは、もう地に落ちている」
ガルムの拳が、固く握りしめられた。
「我は、もう負けられん。師の教えに背いてでもだ。我が負ければ、獣人の国も、魔王軍も、終わる」
俺は、何も言えなかった。
ガルムの腰で、革袋が揺れている。
中の硝子の小瓶が、またかちりと鳴った。
「……その薬は、飲むのか」
思わず、口に出していた。
ガルムが、腰の革袋に手をやる。
「これか。ゼクスがよこした、獣王の血を濃くする薬」
「……」
「飲まん。薬に頼って勝っても、それは我の勝ちではない」
ガルムは、きっぱりと言う。
「お守りとして、持っていくだけだ。ゼクスが、そう言ったからな」
(お守り……)
セレスの妹が、髪飾りのことをそう呼んでいた。
ガルムは立ち上がると、俺を見下ろす。
「手合わせ、礼を言う。勇者から盗んだという技、我も盗ませてもらった」
「……」
「砂漠で、あの小僧を待つ。正々堂々、決闘でな」
ガルムは、中庭を去っていった。
腰の革袋を、軽く叩きながら。
その背中を、俺はずっと見送っていた。
(飲まん、か)
本当に、飲まないのならいい。
でも、ゼクスは、「もしものときのために」と言った。
ゼクスは、物語を作る男だ。
山場の前に、いちばん大事なものを取り上げておく。そして、もしものときが、必ず来るように仕組む。
――もしものとき。
ガルムが、負けそうになったとき。




