第30話 氷姫の鎧、中の人
階段を駆け上がっている途中で、鐘が鳴った。
――ごおおおん。
一度だけ。低く、長く、霧の向こうまで響き渡る音だった。
地下の通路の壁が、かすかに震えた。
天井から、細かな氷の粉が、きらきらと降ってくる。
(鳴らしたな、ギギ)
鐘楼の土台の隠し扉から、外へ転がり出る。
霧が、さっきよりも濃くなっていた。神殿の柱が、白い影になって、ぼんやりと並んでいる。
俺は、北側の柱の陰に身を伏せた。
霧の向こう、神殿の真ん中に、二つの人影が向かい合っていた。
聖剣を下ろした金髪の少年と、空中で止まった氷の槍の前に立つ、銀色の髪の女。
二人とも、鐘楼のほうを見上げていた。
俺も、つられて見上げた。
鐘楼の、てっぺん。鐘を吊るした梁の上に、小さな影が二つ、並んで立っていた。
丸眼鏡のゴブリンが、全身で鐘の綱にしがみついている。
その隣で、銀色の髪の少女が梁につかまって、身を乗り出していた。
少女が、片手を、大きく振る。
「――お姉ちゃあああんっ!」
霧の中に、子供の声が響いた。
神殿の真ん中で、セレスが、凍りついたように動きを止めた。
空中の氷の槍が音もなく崩れ落ち、ただの霧に戻って、地面に降りていく。
「……リュシー」
セレスの唇がその名前の形に動いたが、声には、ならなかった。
鐘楼の上で、リュシーがもう一度、手を振った。
隣で、ギギが何度も何度も、こくこくとうなずいている。綱にしがみついたまま。
――無事だ。見れば、分かる。
セレスは長いあいだ鐘楼を見上げてから、リオのほうに向き直った。
その顔を、俺は霧越しに見た。
泣いてはいない。ただ、ずっと張りつめていた何かが、ほどけたような顔をしていた。
「……勇者」
セレスの声は、静かだった。
「あなたは、封印が要るのでしょう」
「……え?」
「私を倒さなければ、聖剣の封印は解けない。そうでしょう」
リオが、聖剣の柄を握り直す。
でも、構えはしない。迷うように、セレスを見つめている。
「僕は、もう、あなたと戦う理由が――」
「あるわ」
セレスは、リオの言葉を遮った。
「あなたが、魔王を倒すために。……それに」
セレスは、ほんの少しだけ、口の端を上げる。
「あなたの先生が、それを望んでいるから」
リオの目が、大きく見開かれた。
(……おい)
柱の陰で、俺は頭を抱えそうになった。
今、それ言うか。
セレスは、もうリオの返事を待っていなかった。
両手を、ゆっくりと広げる。
足元の雪が、ふわりと舞い上がった。神殿じゅうの霧が、彼女を中心に、渦を巻き始める。
「――全力で来なさい、勇者」
***
霧が、凍っていく。
腕が、脚が、胴が、頭が。
神殿の真ん中に、身の丈が人の三倍はある、氷の巨人が立ち上がっていく。
リオが、ノエルが、ボルドが、一歩ずつ後ずさる。
見上げる三人の顔に、巨人の影が落ちていた。
――今だ。
俺は、柱の陰から飛び出した。
巨人の背後へ。
巨人が形になる瞬間、霧がいちばん濃くなる。正面の三人からは、巨人の背中は見えない。
練習のとおり、巨人の膝をよじ登る。
背中の、肩甲骨のあたり。氷が、扉のように左右に開いていた。
中から、銀色の髪の女が、するりと滑り出てくる。
すれ違いざま、セレスが、俺の耳元で囁いた。
「転ばないでよ」
「分かっている」
「それと」
セレスの手が、一瞬だけ、俺の籠手に触れる。
「……ありがとう」
それだけ言うと、セレスは巨人の背中から飛び降りて、霧の中に消えていった。
鐘楼の方角へ。妹のいるほうへ。
俺は右肩から、斜めに空洞の中へ体をねじ込んだ。
狭い。寒い。
両膝が胸にぶつかり、左腕が頭の上の氷の天井に貼りつく。
目を閉じて、魔力を流す。
氷の中に、自分の魔力が染み込んでいく。命ではなく、魔力を燃やして、巨人を動かす。
まぶたの裏に、景色が浮かんだ。
霧に包まれた、白い神殿。
ずっと下のほうに、三つの小さな人影が、こちらを見上げている。
巨人の目から、見下ろしている。
(――よし。中の人、交代完了)
***
巨人が、一歩、踏み出した。
ずしん、と神殿が揺れる。
リオたちが、さらに一歩、後ずさった。
「で、でかい……!」
ノエルの声が、震えている。
「先生が言ってた、氷の巨人……!」
リオが、聖剣を構えた。
足で雪を固める。重心を前に。脇を締める。
――よし。全部、教えたとおりだ。
ここからは、俺の仕事だ。
この巨人で、勇者に、ちゃんと負ける。
ただし、手を抜いたと分かる負け方では駄目だ。
どこかで、ゼクスが見ているかもしれない。魔王城の監視の目も、まだどこかにあるかもしれない。
そして何より、リオ自身に、勝ったと思わせなければならない。
自分の力で、氷の魔将を倒したのだと。
(廃砦のときと、同じや。違うのは、図体が三倍になったことくらいか)
頭の中で、□ボタンを押した。
巨人の左腕が、横なぎに振られた。
霧を裂いて、氷の拳が、リオたちのいる場所をかすめる。
――かすめるだけ。当てない。
当たれば、人間の体など、ひとたまりもない。
「下がれ!」
ボルドが、ノエルを抱えて横へ跳んだ。
リオは、拳の風圧に煽られながらも、その場に踏みとどまった。
足が、雪を固めている。
だから、吹き飛ばされない。
(おお。今の踏ん張り、九点)
続けて、右腕を振り下ろす。
△ボタン長押し。テストで何千回も見た、第二形態の基本攻撃だ。
リオは、横へは逃げなかった。
拳が振り下ろされる、その内側へ。巨人の足元へ、潜り込むように走った。
大きな相手には、懐が安全。
――それは、教えていない。自分で考えたのだ。
リオの聖剣が、巨人の右の膝を斬りつけた。
氷の表面に、白い傷が走る。浅い。でも、確かに傷がついた。
(やるやないか)
巨人の体に、魔力を流して、傷を塞ぐ。
そして、膝を、わざと少しだけ折ってみせる。効いている、と思わせるために。
「効いてる!」
ノエルが叫んだ。
「リオ、効いてるよ!」
「うん!」
リオが、巨人の足元を駆け抜けていく。
その後ろから、ボルドが大斧を振りかぶって、左の膝に叩きつけた。
ごん、と重い音。ボルドの斧は、リオの剣よりも深く、氷に食い込んでいた。
(さすが元兵士。十点満点で、八点)
巨人の両膝に、傷が増えていく。
俺は、それを塞いでは、また少しだけ傷を残す。勝負になっていると思わせるために。
――テストの仕事と、似ている。
ボスの体力の減り方が、プレイヤーにとって気持ちいいかどうか。早すぎても、遅すぎても駄目だ。ぎりぎりで勝てた、と思わせるのが、いちばんいい。
ノエルが、光の壁を、巨人の足元に張った。
巨人の左足が、壁に引っかかって、わずかによろめく。
(僧侶、今のはええ判断や。七点)
よろめいたまま、巨人の体を、わざと大きく傾けてやる。
リオたちの顔に、勝機を見つけた光が浮かぶ。
――そろそろだ。
***
俺は、巨人の右足を、ゆっくりと後ろに引いた。
片足を、後ろへ。
それが、大技の合図だ。雪原の稽古で、リオに教えた。
リオの目が、こちらを見上げる。
一瞬、迷うような顔をして、何かに気づいたように目を見開いた。
(……気づいたか)
大技の合図を、なぜ、こんなに分かりやすく出してくるのか。
まるで、合図を見せるために、ゆっくりと足を引いているように。
リオは、何も言わなかった。ただ、聖剣を握り直して、ボルドのほうを振り返った。
「ボルドさん! 肩を、貸してください!」
「――おう!」
ボルドが、大斧を放り出して、雪の上に片膝をつく。
「来い、坊主!」
巨人が、両腕を高々と振り上げた。
重心が、後ろに移る。
練習で何度も転んだ、あの姿勢だ。でも今は、引いた右足が、重心を支えている。
ほんの一瞬だけ、巨人の頭が、下がらなくなる。
額の氷冠が、霧の中で、無防備に晒される。
「――行け!」
ボルドの声が響いた。
リオが走った。
一歩目で、ボルドの膝を踏む。
二歩目で、肩を踏む。
三歩目で、空へ跳んだ。
ブランシュの夜と、同じだった。
ただ、あのとき踏み台になったのは、俺だった。今は、ボルドだ。
霧の中に、白く輝く剣を握った少年の影が、高く、高く浮かび上がる。
巨人の目を通して、俺はそれを見ていた。
まっすぐに、こちらへ向かってくる。
脇を締めて。重心を前に。目を、閉じずに。
――全部、教えたとおりだ。
いや、教えた以上だ。
(十点満点で)
聖剣が、額の氷冠に、吸い込まれた。
(――十点)
白い光が、弾けた。
氷冠に、亀裂が走る。
一本、二本。亀裂が冠全体に広がって、銀色の光が、ひびの隙間から溢れ出す。
――パキン。
乾いた音。
廃砦で、俺の兜が割れたときと、まったく同じ音だった。
撃破判定、成立。
(よし、負けた!)
***
巨人の体が、額から崩れ始めた。
氷冠の亀裂が、顔へ、首へ、胸へ。
氷の巨体全体に、細かなひびが網の目のように広がっていく。
空洞の中で、俺は目を開けた。
ここからが、本当の勝負だ。
巨人が砕け散る瞬間に、誰にも見られずに、ここから脱出しなければならない。
巨人の体を、ゆっくりと、北へ傾ける。
崩れながら、鐘楼のある方角へ。
鐘楼の土台には、地下への隠し扉がある。
巨人が倒れる真下に、その扉が来るように。
(テストで、ボスの倒れる位置を調べたときの感覚で――)
巨人が、倒れた。
轟音とともに、氷の巨体が、粉々に砕け散った。
無数の氷の破片が、霧の中に舞い上がる。陽の光を受けて、神殿じゅうが、きらきらと光の雨に包まれた。
その光の雨の中を、俺は転がり落ちていた。
崩れた空洞から、雪の上へ。
雪の上から、鐘楼の土台の、開いたままの隠し扉へ。
階段を、三段ほど転げ落ちて、ようやく止まった。
頭上で、氷の破片が、ばらばらと降り注いでいる。
隠し扉の口が、砕けた氷の山に、少しずつ埋まっていく。
階段の途中で、仰向けに倒れたまま、俺は天井を見上げていた。
全身が、痛い。巨人を動かすのに、魔力をほとんど使い果たした。指一本動かすのも、だるい。
でも、生きている。
セレスも、リュシーも、リオも。
(……全員、生きとる)
氷の山の隙間から、かすかに、地上の声が聞こえてきた。
「……倒した……?」
ノエルの、震える声。
「倒したよ、リオ! 氷の魔将を、倒したんだよ!」
ボルドの、低い笑い声。
そして、少し遅れて、リオの声。
「……第二の封印、解放、って」
リオは、たぶん、聖剣を見つめているのだろう。
頭の奥に響く、あの眠たげな女の声を、聞いているのだろう。
「聞こえたんだ。聖剣が、そう言った」
それから、しばらくリオは黙っていた。
霧の中で、氷の破片が、まだ降り続けている。
その中に、リオの小さな呟きが、混じって聞こえた。
「……あの人は、どこに行ったんだろう」
俺は、氷の山の下で、目を閉じた。
それは、俺が答えることじゃない。
あの女が、いつか自分で答えればいい。




