第29話 三本の楔
氷の柱の前に、男が一人、座っていた。
椅子に浅く腰かけて、足を組んでいる。
黒い礼服に、片眼鏡。片手に、小さな水晶の玉を転がしている。
「お待ちしていましたよ、デバッガーくん」
ゼクスは、振り返りもせずに言った。
「地上は、ずいぶん盛り上がっているみたいですね。ここまで、勇者くんの声が聞こえてきました。『妹さんは、僕たちが助けます』――いい台詞だ。私には、書けない種類の台詞ですけど」
ゼクスは、天井を見上げた。
地上の戦いの音が、氷の天井越しにくぐもって響いてくる。
「……リュシーを、離せ」
「離してもいいですよ。勇者くんが死んだら」
ゼクスは、水晶の玉を指先でくるりと回した。
玉の中で、三本の線のような光がゆっくりと明滅している。
氷の柱の中の少女の首の後ろにも、同じ光が三本並んでいた。
「この玉を握りつぶせば、呪印が目を覚まします。あなたが私に近づくより、私が指に力を入れるほうが、ずっと早い」
「……」
「動かないでくださいね。物語の山場は、地上なんですから。ここは、ただの舞台裏です」
(舞台裏、か)
俺は、大剣の柄から手を離した。
ゼクスとの距離は、十歩。
氷の柱との距離は、十五歩。
ゼクスの言うとおりだ。俺が踏み込むより、あいつが玉を握るほうが早い。
だが、俺が狙うのは、ゼクスではない。
「なあ、ゼクス」
「なんでしょう」
「その呪印、お前がデザインしたのか」
ゼクスが、初めてこちらを振り返った。
片眼鏡の奥の目が、わずかに細くなる。
「……いいえ。デザインは、デザイナーさんの仕事ですから。私は、文章で注文を出しただけです。三本の楔で、命を縛る呪い、と」
「そうか」
俺は、氷の柱の中の少女の首の後ろを見つめた。
三本の楔。左の一本、右の一本、そして真ん中の一本。
真ん中の一本だけ、ほかの二本よりほんの少し線が細い。
「デザイナーに、聞いたことがある。真ん中の楔だけ細いのは、わざとですか、ってな」
「……」
「直し忘れだそうだ。発売の前に直すつもりで、そのまま没になった」
ゼクスの指が、水晶の玉の上で止まった。
「三本の楔は、互いに支え合って、命を縛っている。だが、真ん中の一本だけ細いから、支える力が弱い。そこを先に断ち切れば、残りの二本は、目を覚ます前に崩れる」
俺は、ゆっくりと大剣の柄を握り直す。
「デバッグの報告書に、そう書いた。誰も読まなかったがな」
ゼクスの顔から、笑みが消えた。
水晶の玉を握る指に、力がこもる――。
その前に、俺は大剣を振っていた。
踏み込まない。その場で、柄を握った手首だけで、刃を返す。
没技、黒閃。
力は、テストのときの、千分の一。刃の軌跡を、髪の毛よりも細く。
(ブランシュの盗賊の弓の弦より、細く――)
(斬るんやない。断つんや)
黒い線が、空中を走った。
ゼクスの横を、すり抜けて。
氷の柱の表面を、傷一つつけずに、すり抜けて。
少女の首の後ろの、真ん中の楔だけを。
――ぷつん。
音は、それだけだった。
ゼクスの手の中で、水晶の玉が握りつぶされた。
ぱきん、と乾いた音がして、玉が粉々に砕け散る。
何も、起きなかった。
氷の柱の中の少女の首の後ろで、三本の光がふっと消えていった。
左から、右から。真ん中の一本は、もうとっくに消えている。
ゼクスが、手のひらの上の水晶のかけらを見下ろした。
「…………」
長い沈黙。
それから、ゼクスはふっと笑った。
いつもの、柔和な笑みではなかった。疲れたような、それでいて、どこか楽しそうな笑み。
「……直し忘れ、ですか」
「ああ」
「私の物語の中で、私の知らない仕様があったとは。……悔しいですね」
ゼクスは水晶のかけらを床に払い落とすと、椅子から立ち上がった。
「今日は、私の負けにしておきます」
外套の裾を払って、通路の奥へ歩いていく。
「でも、覚えておいてください。物語は、まだ序盤です。山場は、まだいくらでも作れる」
闇の向こうで、ゼクスの足音がふっと消えた。
転移の札を使ったのだろう。
***
ゼクスの気配が完全に消えるのを待ってから、俺は氷の柱に駆け寄った。
柱の中で、少女が俺を見つめていた。
銀色の髪。青白い肌。セレスに、よく似た顔立ち。
怯えていない。ただ、こちらを見ている。
「……少し、冷えるぞ」
柱に、両手を当てた。
ヴァルガスの魔力を、ゆっくりと流し込む。
セレスの氷を溶かすほどの力はないが、ゼクスの作った氷なら、時間をかければ割れる。
柱の表面に、細かなひびが走り始めた。
「ヴァルガス様ぁっ!」
背後から、甲高い声が響く。
振り返ると、階段の上から、小さな影が転がり落ちてくるところだった。
ころころと、文字どおり、転がって。最後の段で弾んで、俺の足元にべちゃりと着地する。
「ギギ……!? 鐘楼はどうした」
「か、鐘楼の上から、参謀殿の転移の光が見えましたので……! な、何か、ヴァルガス様の身に、何かあったのではと……!」
ギギは丸眼鏡をずらしたまま、がばっと顔を上げた。氷の柱の中の少女と、目が合った。
少女の目が、わずかに見開かれる。
「……ぎぎ」
氷の中で、少女の唇がかすかに動いた。
「は、はいっ! ギギでございます! 昨夜の、手紙の!」
ギギが、氷の柱に飛びついた。
小さな手で、柱の表面をぺちぺちと叩く。
「お、お約束どおり、助けに参りました! ヴァルガス様が! ギギは、その、お手伝いで……!」
柱のひびが、一気に広がった。
ぱきん。
氷が、内側から割れた。
崩れ落ちる氷の破片の中から、銀色の髪の少女が前のめりに倒れ込んでくる。
俺は大剣を放り出して、両腕でそれを受け止めた。
軽い。
十二歳の子供は、こんなに軽いのか。
「……あったかい」
腕の中で、リュシーが小さく呟いた。
ヴァルガスの鎧は、冷たい黒鉄だ。温かいはずはない。
でも、この子にとっては、氷の中よりはずっと温かいのだろう。
「ギギ」
「は、はいっ!」
「この子を連れて、ボツのところへ行け。神殿の南の、雪の吹き溜まりの裏で待たせてある」
「か、かしこまりました!」
ギギが、リュシーの手を取った。
小さなゴブリンと、小さな氷の一族の少女が、手をつないで階段の下に立つ。
「それと」
俺は、懐から伝声貝を取り出した。
「上に出たら、すぐに、鐘を鳴らせ」
ギギが、丸眼鏡の奥で目を見開いた。
「……鐘楼の、鐘を」
「一度だけだ。それで、地上の戦いは終わる」
ギギは、ぎゅっと唇を結んだ。
リュシーの手を引いて、階段を駆け上がっていった。
一段飛ばしで。空を飛ぶのが怖いと泣いていたゴブリンが、振り返りもせずに。
俺は、放り出した大剣を拾い上げた。
地上の戦いの音は、いつの間にか止んでいた。
代わりに、天井の向こうから張りつめた静けさが降りてくる。
――鐘が、鳴るのを待っているのだ。
(さあ、次は、中の人の出番や)




