第28話 白霧の神殿
正午の鐘は、鳴らなかった。
白霧の神殿には、もう鐘を鳴らす人間はいない。
代わりに、霧の中に凍りついた音が満ちていた。風が柱のあいだを抜けるたびに、きいん、と細い音が響く。
俺は神殿の外れの雪の吹き溜まりに身を伏せて、それを見ていた。
神殿の真ん中に、セレスが立っている。
銀色の髪を、白い霧の中になびかせて。
南の雪原から、三つの人影が歩いてきた。
先頭は、金髪の少年。腰の聖剣が、霧の中でも白く光っている。
その後ろに、白い法衣の少女と、大きな斧を背負った男。
リオたちは、神殿の外周の柱の手前で足を止めた。
「……氷の魔将、セレス」
リオの声が、霧の中に響いた。
「勇者リオです。あなたを、倒しに来ました」
セレスは、答えない。ただ、ゆっくりと右手を持ち上げた。
次の瞬間、リオの足元の雪が、白く光る。
(来る)
氷の槍が、地面から噴き上がった。
リオは、跳んでいた。光った場所の、斜め前へ。雪原で教えた、そのままの動きで。
さっきまでリオが立っていた場所を、人の背丈の倍はある氷の槍が貫いた。
そして、リオが後ろへ逃げると読んで撃たれた二本目の槍は、誰もいない雪原に突き刺さった。
セレスの目が、わずかに見開かれる。
(よし。今の跳び方、十点満点で八点)
――と、採点している場合ではない。
俺は、吹き溜まりから身を起こした。
神殿の北側、古い鐘楼の土台へ向かって、霧の中を走る。
鐘楼の上に、小さな影がしがみついていた。
ギギだ。鐘の舌から垂れた綱を、両手で抱きしめている。俺に気づくと、こくこくと何度もうなずいた。
土台の石の一つを、大剣の柄で叩く。
ギギの言ったとおり、石が奥へ沈み込んで暗い階段が口を開けた。
階段に足をかけたとき、背後で、氷の砕ける音。
振り返らずに、俺は暗闇の中へ降りていった。
***【リオ視点】
氷の槍は、雨みたいに降ってきた。
一本、二本、五本、十本。
霧が凍りついて、神殿の床があっという間に氷の剣山になっていく。
「ボルドさん、左!」
「おう!」
ボルドさんの大斧が、横から迫る槍を叩き折った。
ノエルが、僕たちの頭の上に光の壁を張る。降ってくる氷の粒が壁に当たって、ばらばらと砕けていく。
「ノエル、壁は全部張り直さないで! ひびの入ったところだけ!」
「分かってる! 黒騎士さんに言われたもん!」
僕は、二人の前に出た。
足元が、白く光る。斜め前へ跳ぶ。
また光る。また跳ぶ。
先生の言ったとおりだった。後ろに逃げると、次の槍は必ず後ろに出る。前に出れば、魔将の読みが外れる。
一歩ずつ、あの人との距離が縮まっていく。
氷の魔将が、両手を振り下ろした。
神殿の床が、一面、白く光った。
――逃げ場がない。どこへ跳んでも、槍が出る。
だから、跳ばなかった。
聖剣を、自分の足元の床に突き立てた。
刃から白い光が広がって、僕の立っている場所だけ、氷が生まれるのがほんの少し遅れる。どうしてそうなるのかは分からない。ただ、そうなる気がした。
その一瞬のあいだに、僕は前へ走った。
周りじゅうから氷の槍が噴き上がる、その隙間の、たった一本の道を。
あの人の、目の前まで。
「――っ」
氷の魔将が、初めて後ろに下がった。
僕の聖剣が、あの人の外套の裾を浅く切り裂いた。
氷の結晶を編んだ外套が、きらきらと砕けて、霧の中に散っていく。
すぐに、あの人の右手から氷の剣が生まれた。
僕の二撃目を、正面から受け止める。
聖剣と氷がぶつかって、火花の代わりに、霜の花が散った。
「……強くなったのね」
低い声。
「ブランシュでは、膝が震えていたのに」
「今も、震えてます」
剣を押し込みながら、正直に答えた。
「でも、目は、閉じてません」
氷の剣に、聖剣を弾き返された。
雪の上を転がって、すぐに起き上がる。足で雪を固めて、構え直す。
あの人の指先に、霧が集まっていった。
今までで、いちばん太い氷の槍だった。
ブランシュの地下で、先生を吹き飛ばしたのと、同じくらいの。
その先が、まっすぐ、僕の胸を向いている。
「……ごめんなさい」
あの人が、呟いた。誰に謝ったのか、僕には分からない。
氷の槍が、放たれた。
「リオ!」
ノエルの悲鳴が、霧を裂く。
僕は、避けなかった。
聖剣を前に構えたまま、迫ってくる槍の先を、まっすぐに見ていた。
目だけは、閉じるな。
「妹さんは、僕たちが助けます!」
――槍が、止まった。
僕の胸の、手のひら一つ分手前で。
空中に凍りついたみたいに、ぴたりと。
あの人の指が、震えていた。
信じられないものを見るような目で、僕を見ていた。
「……なんで」
かすれた声。
「なんで、あなたが、それを」
答える代わりに、僕は聖剣をゆっくりと下ろした。
「あなたは、トウヒの村を守ってくれた。氷の壁に、雪の結晶の模様が浮かんでた。……あなたの氷と、同じ模様が」
あの人の肩が、びくりと震えた。
「僕は、あなたを倒さなきゃいけない。聖剣の封印のために。でも、殺したくない。あなたの妹さんも、死なせたくない」
あの人を見上げる。
「だから、お願いします。少しだけ、待ってください」
空中で止まった氷の槍に、ぴしりと、ひびが入る。
あの人の目から、何かが一筋、頬を伝って落ちた。
それは頬の上で小さな氷の粒になって、霧の中に消えていく。
***
――神殿の地下で、俺は、最後の階段を降りきっていた。
狭い通路の先に、青白い光が漏れている。
その奥に、氷の柱が、一本。
透き通った氷の中に、銀色の髪の少女が目を開けたまま閉じ込められていた。




