第26話 【リュシー視点】氷の中の妹
寒くは、なかった。
それが、いちばん怖かった。
私は、氷の一族の子だ。
生まれたときから雪の中で眠って、氷柱をかじって育った。寒さで震えたことなんて、一度もない。
なのに、この氷の中は寒くない。
冷たいのに、寒くない。まるで、体の中の何かが少しずつ、氷に吸い取られていくみたいに。
――首の後ろが、痛い。
ここに閉じ込められる前、あの片眼鏡の男に首の後ろを指で触られた。
焼けるような痛みが走って、そのあと、そこに何かが刻まれた。三本の線のような、紋様のようなものが。
それから、ずっと痛い。
痛みが強くなると、手足の先が少しずつ動かなくなっていく。
***
お姉ちゃんのことを、考える。
氷の中で、ほかにできることはない。
目は開いている。でも、見えるのは青白い氷の壁と、その向こうのぼんやりした暗闇だけ。
お姉ちゃんは、怒ると怖い。
でも、本当は、すごく優しい。
私が小さいころ、お母さんがいなくなった。
お姉ちゃんは、それから毎朝、私の髪を結ってくれた。下手くそで、いつも左右の高さが違ったけど。
十歳の誕生日に、お姉ちゃんは雪の結晶の髪飾りをくれた。
お姉ちゃんが自分の氷で一晩かけて形を作って、それを銀の職人さんに頼んで、本物の銀にしてもらったんだって。
――リュシー。これは、お守りよ。
――お守り?
――私が、いつでもあなたを見つけられるように。この結晶の形は、私にしか作れないから。
あの髪飾りは、あの男に取られた。
氷に閉じ込められる前に、髪から乱暴に引き抜かれた。
お姉ちゃんは、私を見つけられるだろうか。
***
足音が、聞こえた。こつ、こつ、と硬い床を歩く音。
氷の壁の向こうの暗闇に、ぼんやりと灯りが近づいてくる。
片眼鏡が灯りを反射して、きらりと光った。
「やあ、リュシーさん。ご機嫌いかがですか」
あの男だった。黒い服を着て、いつもにこにこしている男。
「ああ、返事はしなくていいですよ。氷の中では、話せませんからね」
男は氷の壁の前に椅子を引いてきて、腰を下ろした。
まるで、お芝居でも観に来たみたいに。
「明日の正午、あなたのお姉さんが、勇者くんと戦います。この真上で」
男は、細い指で天井を指さす。
「あなたには、特等席で見ていただこうと思いまして。ほら、ここからなら、お姉さんの声も聞こえるでしょう」
何を言っているのか、分からなかった。分かりたくなかった。
「本当はね、リュシーさん。あなたのお姉さんは、明日、ここで死ぬ役なんです」
子供に、寝る前のお話を聞かせるみたいな、優しい声。
「勇者くんに負けて、氷の巨人と一緒に砕けて、最期に、あなたの名前を呼ぶ。『ごめんね、リュシー』って。……いい台詞でしょう? 私が書いたんですよ」
男は、胸に手を当てた。
「でも、今回は、少し筋書きを変えてあげました。お姉さんが勇者くんを殺せば、あなたは助かる。殺せなければ、あなたが死ぬ。……どちらに転んでも、お姉さんは、あなたの名前を呼ぶことになりますね」
首の後ろが、焼けるように痛んだ。
男が、懐から何かを取り出した。
小さな水晶の玉だった。中で、三本の線のような光がゆっくりと明滅している。
――私の首に刻まれたのと、同じ形。
「この玉を握りつぶせば、あなたの首の呪印が、目を覚まします。あなたは、内側から凍りついて、そのまま、美しい氷像になる」
男は、水晶の玉を指先でくるくると回した。
「明日、勇者くんが生き残ったら、私はこれを握りつぶします。……お姉さんが、どちらを選ぶか。楽しみですね」
男は、椅子から立ち上がった。
灯りが、遠ざかっていく。足音が、こつ、こつと小さくなっていく。
また、暗闇だけが残った。
***
泣きたかった。でも、氷の中では、涙も出ない。
お姉ちゃん。
お姉ちゃん、来ないで。
勇者を殺したら、お姉ちゃんはもう、村を守る魔女じゃなくなる。
勇者を殺さなかったら、私が死ぬ。そしたら、お姉ちゃんは一生、自分を許さない。
どっちも、嫌だ。
首の後ろが、痛い。手の指の先が、もうほとんど動かない。
――そのとき、だった。
暗闇の向こうで、何かがかさりと動いた。
足音ではなかった。もっと小さくて、もっと軽い、何かが這うような音。
氷の壁の、すぐ外側に。
小さな影が、ぺたりと張りついた。
灯りは、ない。でも、氷の一族の目は、暗闇でも少しだけ見える。
丸い、眼鏡が見えた。鼻の先までずり落ちた、丸眼鏡。
その奥で、緑色の小さな目が、ぱちぱちとまばたきをしていた。
――ゴブリン?
小さなゴブリンが氷の壁に顔をくっつけて、こちらを覗き込んでいた。
鼻の頭が氷に押しつけられて、ぺちゃんこになっている。
ゴブリンは私と目が合うと、びくりと飛び上がった。
慌てたように、口元に人差し指を当てた。
しーっ。
懐から帳面を取り出して、羽ペンで何かを書き始めた。
震える手で、一文字ずつ、ゆっくりと。
書き終えると、ゴブリンは帳面を氷の壁に押し当てた。
下手くそな字だった。お姉ちゃんの髪の結い方みたいに、左右の高さが、ばらばらな字。
『あした たすけに きます
おねえさまは ぶじです
ぎぎ』
――ぎぎ。
それが、名前なのだろうか。
ゴブリンは帳面をしまうと、もう一度しーっと人差し指を口に当てた。小さな体を丸めて、暗闇の向こうへころころと転がるように消えていった。
氷の中で、私はずっと、その字を思い浮かべていた。
あした、たすけに、きます。
首の後ろは、まだ痛かった。
でも、指の先がほんの少しだけ、温かくなった気がした。




