第21話 空っぽの氷牢
北の廃坑は、雪山の麓に黒い口を開けていた。
百年前に掘り尽くされた銀の鉱山だ。
入口の周りには、錆びたトロッコの線路と崩れた見張り小屋が、雪に半分埋もれている。
俺とセレスは、入口から少し離れた岩陰に身を伏せていた。
月のない夜だった。空の上では、ボツが雲に紛れて旋回している。
「結界は、入口から三十歩奥」
セレスが、囁くように言った。
「外からは、ただの暗闇にしか見えない。でも、近づくと分かるわ。空気が、ぬるくなるの」
「ぬるく?」
「ゼクスの結界は、触れたものの熱を奪わない。だから、冷たいはずの坑道の中で、そこだけ空気がぬるい。私みたいな氷の魔将にとっては、気持ちが悪いくらいに」
(結界の判定範囲を、温度で見分けてるんか)
この女は、本当によく見ている。
懐から、氷の鍵を取り出した。
小指ほどの長さの、透き通った氷の棒だ。中に、雪の結晶の模様が封じ込められている。
「差し込めるのは、一度だけ。開いていられるのは、十数える間だけ」
「十分だ」
俺たちは、坑道に入った。
***
セレスの言ったとおりだった。
三十歩ほど進んだところで、急に、空気の感触が変わった。
骨まで凍るような冷気の中に、そこだけ人肌のようなぬるさが、薄い膜のように張っている。
目を凝らすと、暗闇の中に、かすかに模様が浮かんでいた。
召喚印と同じ、開発中の仮のデザイン。
(ゼクス、ほんまにこのデザインしか使わんな)
たぶん、あいつにとっては、こっちが「正しい」デザインなのだろう。
改変される前の、自分の書いた世界の。
模様の継ぎ目を探す。開発中のデザインには、線と線のつなぎ目に、わずかな隙間があった。正式版では埋められた、描き損じのような隙間だ。
「ここだ」
継ぎ目の一点に、氷の鍵を差し込んだ。
ぬるい膜が、ぶるりと震えた。
鍵の刺さったところから、人ひとり通れるくらいの穴が、ゆっくりと開いていく。
「一、二……」
セレスが、小声で数え始めた。
俺たちは、穴をくぐり抜ける。
「……八、九、十」
背後で、穴が音もなく閉じた。
***
結界の内側は、坑道とは思えないほど整っていた。
岩肌は滑らかに削られ、壁には、青白い光を放つ石が等間隔に埋め込まれている。
床には、塵ひとつない。
――几帳面な男だ。
会社の机の上も、いつもこんなふうに片づいていた気がする。
坑道の突き当たりに、扉が一つあった。
氷でできた、分厚い扉だ。
セレスが、扉に手を触れた。
彼女の指先から、冷気が扉に染み込んでいく。分厚い氷が、少しずつ水に戻っていく。
氷の魔将は、氷を作るだけでなく、溶かすこともできる。
自分より弱い氷なら。
扉が、溶け落ちた。
その奥は、小さな部屋だった。
部屋の真ん中に、氷の柱が一本、立っている。
人ひとりが、すっぽりと収まるくらいの大きさの。
柱の中は、空っぽだった。
セレスが、柱に駆け寄った。
両手で、透き通った氷の表面に触れる。中を、覗き込む。
「……リュシー?」
柱の内側には、人の形の窪みが残っていた。
小柄な、子供の背丈の窪みだ。ついさっきまで、誰かがそこに閉じ込められていたように。
「リュシー……どこ……?」
セレスの声が、震えていた。
俺は、部屋の中を見回した。
氷の柱のほかには、何もない。いや――。
柱の足元に、白い封筒が一通、置かれていた。
封蝋には、参謀の紋。
拾い上げて、封を切る。
中には、几帳面な字で、短い手紙が一枚だけ入っていた。
『いらっしゃい、ヴァルガス殿。それと、セレス殿。
結界の継ぎ目、見つけるのが早かったですね。さすがです。
でも、残念。
妹さんは、決戦の日に、決戦の場所で、お返しします。
勇者くんが、セレス殿に負けたなら、生きたまま。
勇者くんが、セレス殿に勝ったなら――そのときは、別の形で。
物語には、ちゃんと山場が必要ですからね。
――ゼクス』
手紙を持つ指に、力がこもった。
紙が、くしゃりと音を立てる。
(……読まれとった)
結界の継ぎ目を探すことも。
セレスの氷の鍵で、穴を開けることも。
全部。
あいつは、俺の動き方を知っている。
バグを探すときの、デバッガーの癖を。そして、物語の作り方を知っている。山場の前に、いちばん大事なものを取り上げておく、という作り方を。
背後で、何かが崩れる音がした。
振り返ると、セレスが氷の柱にもたれて、ずるずると床に座り込んでいた。
「……ここに、いたのよ」
柱の内側の窪みに、そっと手を当てている。
「ここに、いたの。ついさっきまで。……まだ、少しだけ、冷たさが残ってる」
氷の魔将にしか分からない、冷たさの名残。
妹の、体温の跡。
セレスは、もう何も言わなかった。
泣いてもいない。ただ、柱の窪みに手を当てたまま、じっと動かなかった。
俺は、手紙をたたんで懐にしまった。
かける言葉が、見つからない。
テストの報告書なら、いくらでも書けた。再現手順も、発生条件も、修正案も。
でも、今ここでこの女にかける言葉は、どの報告書の書式にも載っていなかった。
俺は、セレスの隣に、黙って腰を下ろした。
氷の床は冷たかったが、立ち上がる気にはなれない。
しばらくして、セレスがぽつりと言った。
「……決戦の日に、決戦の場所で」
「ああ」
「白霧の神殿に、あの子がいる」
セレスは、ようやく顔を上げた。
青い目に、さっきまではなかった、硬い光。




