第20話 中の人
白霧の神殿は、その名のとおり、いつも霧に包まれていた。
国境の雪原の真ん中に、白い石の柱が円を描いて並んでいる。
屋根はない。柱の上に積もった雪が、霧の中でぼんやりと光って見えた。
原作の二章で、勇者とセレスが戦う場所だ。
テストでは、このマップを何百回と歩いた。柱の数は二十四本。北側の三本目だけ、根元にひびが入っている。
「……本当に、来たことがないの?」
隣で、セレスが呆れたように言った。
俺が霧の中で迷わず北側の三本目の柱へ歩いていき、根元のひびを確かめているのを見て。
「夢で、見ただけだ」
「夢で、柱のひびまで?」
「細かい夢を見る性質でな」
セレスは、もう追及しなかった。
この一月で、追及しても無駄だと学んだらしい。
昨夜、王都の時計塔の下で、セレスから小さな氷の鍵を受け取った。
北の廃坑の、ゼクスの氷牢。その結界に、セレスの氷で作った鍵を差し込めば、一瞬だけ穴が開く。三日かけて、セレスが結界の隙間を調べ上げて作ったものだ。
氷牢には、明日の夜に忍び込む。
その前に、今日は、本番の練習だ。
「始めるわよ」
セレスが、神殿の真ん中に立った。
両手を、ゆっくりと広げる。
足元の雪が、ふわりと舞い上がった。霧が、彼女を中心に渦を巻き始める。
白い霧が、凍っていく。
一つ一つの霧の粒が、小さな氷の結晶になって、彼女の周りに集まっていく。
腕が、生まれた。
脚が、生まれた。
胴が、肩が、頭が。
気づいたときには、身の丈が俺の三倍はある氷の巨人が、目の前に立っていた。
――氷姫の鎧。
原作の、セレスの第二形態だ。
透き通った青白い体に、鎧のような氷の板が幾重にも重なっている。顔はドレスを着た女の彫像のように整っていて、額には銀色に光る氷の冠。
(……モデル、そのまんまやんけ)
テストのときに、何千回も見た姿だ。
なのに、本物を見上げると、首が痛くなるほど大きい。
巨人の背中の、肩甲骨のあたりで、氷が扉のように左右に開いた。
中の空洞から、セレスがひょいと顔を出す。
「どうぞ」
「……そこから入るのか」
「ほかに入口はないわ」
空洞は、氷の間でセレスが描いてみせた四角より、さらに狭かった。
俺は巨人の膝をよじ登り、背中の扉に頭を突っ込んだ。肩が、つかえた。
「斜めに入って」
「斜め……」
「右肩から。そう。それで、左腕を、上にあげて」
言われるままに体をねじ込むと、セレスと入れ替わるように、空洞の中に体が収まった。
収まった、というより、詰め込まれた。
両膝は、胸につくほど折り曲げられている。
首は、斜めに傾いたまま動かない。右腕は脇腹に押しつけられ、左腕は頭の上に伸びたまま、氷の天井に貼りついていた。
寒い。ヴァルガスの鎧は寒さに強いはずなのに、それでも、骨の芯まで冷えてくる。
そして、前が、見えない。
「セレス。前が見えん」
「巨人の目を通して見るのよ。目を閉じて、鎧に魔力を流して」
外から、セレスの声がくぐもって聞こえた。
目を閉じる。体の外側に、魔力を流していく。氷の中に、自分の魔力が染み込んでいくのが分かった。
まぶたの裏に、景色が浮かんだ。
霧に包まれた、白い石の柱。
ずっと下のほうに、小さな人影が一つ。腕を組んで、こちらを見上げている銀色の髪の女。
――巨人の目から、見下ろしている。
「見えた」
「じゃあ、右手を上げてみて」
右手。
巨人の、右手。
どうやって動かすのか、と思った瞬間、テストのときの感覚がよみがえった。
コントローラーを握って、このボスの動きを、一つずつ確かめていったあの感覚。
(右手を上げるのは、△ボタン長押し……いや、ボタンないけど)
頭の中で、△ボタンを長押しする。
巨人の右手が、ゆっくりと持ち上がった。
「動いた」
「……上手ね。初めての人は、たいてい、足から動かそうとして転ぶのに」
「次は」
「一歩、前へ」
一歩前。テストのときは、左スティックを、ほんの少しだけ前に倒した。
巨人の右足が、ずしん、と雪を踏んだ。
「左手で、なぎ払う動き」
「□ボタン……」
「何それ?」
「何でもない」
頭の中で、□ボタンを押す。
巨人の左腕が、霧を裂いて横に振られた。氷の拳が、風を巻き起こす。
(いける。モーションは、全部覚えとる)
調子に乗った。
「次は、両手を振り上げて、叩きつける大技を――」
頭の中で、△と□を同時押しする。
原作の第二形態で、いちばん派手な攻撃だ。テストでは、この技の当たり判定のずれを三十件は報告した。
巨人が、両腕を高々と振り上げた。
そして、そのまま、後ろにひっくり返った。
ずどおおおん。
雪煙が、霧ごと吹き飛んだ。
巨人の背中が、神殿の柱を三本まとめてなぎ倒して、雪原に仰向けに転がる。
空洞の中で、俺は逆さまになっていた。
膝と首と両腕が、さっきとはまったく違う方向に折れ曲がっている。
(……重心のこと、完全に忘れとった)
ゲームのボスは、どんなに大きく腕を振り上げても、転ばない。
転ばないように、プログラムで決めてあるからだ。
この世界には、そんなプログラムはない。
巨人の体には、ちゃんと重さがある。両腕を振り上げれば、重心は後ろに移る。
――リオに、あれだけ偉そうに重心の話をしておいて。
「……ふ」
外から、かすかな声が聞こえた。
「ふふ……ふふふっ……」
巨人の目を通して見ると、雪原の上で、セレスがお腹を抱えていた。
銀色の髪を振り乱して、肩を震わせて、声を上げて笑っている。
「あはははっ! ひっくり返った! 五魔将最強の男が、私の鎧の中で、ひっくり返った……!」
「笑うな」
「無理よ、無理……! 柱、三本も……っ」
セレスは、雪の上に膝をついて、涙を拭っていた。
冷たい顔しか、見たことがない。
葬式の大広間でも、ブランシュの地下でも、この女は一度もこんなふうに笑わなかった。
巨人の中で逆さまのまま、俺はしばらくその笑い声を聞いていた。
(……まあ、ええか)
柱が三本折れたくらいで、この女が笑えるなら、安いものだ。
***
日が暮れるまで、練習を続けた。
転び方を覚えた。起き上がり方も覚えた。
大技を出すときは、片足を後ろに引いて、重心を前に残す。リオに教えたことの、ちょうど逆だ。
最後の一回、俺は巨人の大技を、転ばずに出しきった。
雪原に、氷の拳の形の大穴が二つ開いた。
「……合格」
セレスが、短く言った。
背中の扉を開けて這い出してきた俺を見上げて、口の端を少しだけ上げる。
「本番で転んだら、勇者に笑われるわよ」
「お前に笑われるより、ましだ」
「あら。私は、もう十分笑わせてもらったわ」
セレスは、倒れた柱の残骸に腰を下ろした。
霧の向こうに沈んでいく夕日を、ぼんやりと眺めている。
「……明日の夜ね」
「ああ」
「リュシーが、いたら」
セレスは、そこで言葉を切った。
膝の上で、両手を固く握りしめている。
「いたら、連れて帰る」
俺は、それだけ言った。
セレスは、こちらを見ずに、小さくうなずいた。




