第19話 【ノエル視点】氷の魔女の噂
あの黒騎士は、怪しい。
私は、最初からそう思っていた。
ブランシュで、子供たちを守ってくれたことには感謝している。でも、それとこれとは話が別だ。
名前を名乗らない。兜を脱がない。
仕事は雪かきだと言うけれど、雪かきをしている傭兵が、ヒュドラの毒を浴びても平気な鎧を着ているはずがない。
それに、リオのことを、知りすぎている。
リオの剣の癖を、一目で見抜いた。
リオがどこへ向かうのか、聞く前から知っているような顔をしていた。
私は、教会の孤児院の育ちだ。
孤児院には、ときどき、親切そうな顔をした大人がやってくる。その中には、本当に親切な人もいたし、そうでない人もいた。
そうでない人は、たいてい、こちらのことを知りすぎていた。
だから、私は、リオのそばにいる。
リオのことを知りすぎている大人から、リオを守るために。
***
黒騎士さんと再会した次の日、私は一人で、聖堂の前の広場にいた。
ボルドさんは武具屋へ、リオは宿で剣の手入れをしている。
私は旅の祈祷に使う蝋燭を買いに出て、そのまま広場の噴水の縁に座り込んでいた。噴水は、もちろん凍っている。
「お嬢ちゃん、勇者様のお連れの方かい」
声をかけてきたのは、蝋燭売りのおばあさんだった。
顔じゅう皺だらけで、目だけが、きらきらと若い。
「はい。僧侶のノエルです」
「白霧の神殿へ、行くんだってねえ。氷の魔将を、倒しに」
「……はい」
「そうかい、そうかい」
おばあさんは、私の隣に腰を下ろした。
凍った噴水を見上げながら、ぽつりと言う。
「あたしの村はね、国境の、トウヒの村ってところでさ。昔から、言い伝えがあるんだよ」
「言い伝え?」
「氷の魔女の話さ」
おばあさんは、皺だらけの指を一本立てた。
「冬になると、北の山から魔物が下りてくる。雪狼だの、氷熊だの。昔は、毎年のように村が襲われてた。……それがね、あたしが子供のころから、ぱったり止んだんだよ」
「止んだ……?」
「魔物が村に近づくとね、どこからともなく、氷の壁が立つのさ。村をぐるりと囲むみたいに。魔物はそれに阻まれて、山へ帰っていく」
おばあさんは、目を細めた。
「村の年寄りは、みんな言うよ。氷の魔女様が、守ってくださってるんだって。一度だけ、見たって人もいる。吹雪の中に、銀色の髪の女が立ってたって」
銀色の髪。
「その魔女様って……どんな人なんですか」
「さあねえ。誰も、話したことはないからね。お礼を言おうにも、すぐ消えちまうんだとさ」
おばあさんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「それでね、お嬢ちゃん。あたしは、ちょっとだけ心配なんだよ。白霧の神殿の氷の魔将ってのが、もし、あの魔女様と同じ人だったら……ってね」
私は、何も言えなかった。
「まあ、年寄りの取り越し苦労さ。魔将なんて、人を襲う化け物だろう? 魔女様とは、似ても似つかないよ。……きっとね」
おばあさんは、私に蝋燭を一本おまけしてくれて、去っていく。
***
その夜、私は眠れなかった。
宿の部屋の窓から、外を眺める。
雪は止んでいて、空には星が出ている。月の光が、王都の屋根の雪を青白く光らせていた。
氷の魔女。村を守る、銀色の髪の女。
もし、それが氷の魔将と同じ人だったら。
私たちは、村を守ってきた人を、倒しに行くことになる。
――考えすぎだ。
魔将は魔物の仲間で、人間の敵で、リオの聖剣の封印を守っている。それ以上のことを考えたら、足がすくむ。
窓の外で、何かが動いた。
宿の裏手の、細い路地。
月明かりの中を、大きな影が歩いていく。
黒い鎧。灰色のマント。練習用の鉄兜。
(……黒騎士さん?)
こんな夜中に、どこへ。
気づいたときには、私はもう、外套を羽織って部屋を出ていた。
***
黒騎士さんは、王都の外れの、古い時計塔の下で足を止めた。
私は、路地の角の雪の壁に隠れて、息を殺す。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。僧侶が夜中に男の人の後をつけるなんて、院長先生に知られたら、三日はお説教だ。
時計塔の陰から、もう一つの人影が現れた。
細い人影だった。月の光の中で、長い髪が、銀色に光る。
(――銀色の、髪)
女の人だった。青白い肌に、氷の結晶みたいな薄い外套。遠くからでも分かるくらい、綺麗な人だった。
黒騎士さんと銀色の髪の女の人は、時計塔の陰で何かを話し始めた。
声は、聞こえない。ただ、二人の距離が、ずいぶん近いことだけは分かった。
女の人が、何かを差し出した。
黒騎士さんが、それを受け取る。小さな、きらりと光るもの。
それから女の人は、少しだけ笑った。
黒騎士さんの肩に、手を置いて。
(…………え)
私は、雪の壁の陰で、固まっていた。
夜中に。
人目を忍んで。
時計塔の下で。
銀色の髪の、綺麗な女の人と。
(逢い引き……!?)
頭の中が、真っ白になった。
名前も名乗らない、兜も脱がない、雪かきの傭兵が。
夜中に、こっそり、女の人と。
――いや、待って。落ち着いて、ノエル。
あの人がどこで誰と会おうと、私たちには関係ない。リオの先生ってわけでもないし。本人が先生じゃないって言ってるし。
でも、なんで私、こんなに動揺してるんだろう。
もう一度、雪の壁の陰から覗く。
銀色の髪の女の人は、もう背を向けて、時計塔の向こうへ歩き出していた。
その横顔が、月の光に照らされた。
一瞬だけ。でも、確かに見えた。
(……あの人の顔、どこかで)
どこかで見た気がする。
でも、どこだったか、思い出せない。
王都の誰かではない。旅の途中の村でもない。
見た顔ではなくて、誰かの話の中で、聞いた顔のような。
黒騎士さんが、こちらを振り返った。
私は、慌てて雪の壁の陰に頭を引っ込めた。
息を止めて、じっとしていた。
足音は、近づいてこない。
しばらくしてそっと覗いたときには、時計塔の下にはもう誰もいなかった。
宿に戻る道を歩きながら、私はずっと考えていた。
氷の魔女。
銀色の髪の女。
黒騎士さんの、逢い引きの相手。
それから――ブランシュの地下で、リオの前に立ちはだかったという、氷の魔将。
リオから聞いた話では、確か、その魔将も。
(……銀色の、髪)
足が、止まった。
雪の積もった路地の真ん中で、私は、しばらく動けなかった。




