第2話 【リオ視点】黒い鎧の先生
あの魔将は、たぶん、僕に剣を教えていた。
……そんなはずはないと、分かってはいる。
でも街道を歩きながら何度思い返しても、そうとしか思えなかった。
重心が踵に乗っている。剣は足で振るもの。左脇は鎧の継ぎ目。
魔将は怒鳴りながら、全部言ってくれた。村の誰も、僕に教えてくれなかったことを。
***
僕は、村でいちばんの役立たずだった。
その僕が、ひと月前、村の祠で聖剣を抜いてしまったのだ。
抜けたのは、たまたまだと思う。その日、僕が祠の掃除当番だっただけだ。
なのに王都から来た神官様は、震える僕の肩に手を置いて、こう言った。
「魔王を倒せるのは、聖剣に選ばれた者だけです。あなたが行かなければ、この国は滅びます」
剣の稽古は、三日しか受けていない。神官様の護衛の騎士様は、三日目の夕方に、ため息まじりに剣を収めた。
「筋がないな。悪いが、俺に教えられることはない」
旅立ちの朝、村長さんは、僕の手を両手で包んでくれた。
「リオや。怖かったら、いつでも帰ってきていいんじゃよ」
廃砦の前で、ノエルとボルドさんは、結界の手前までしかついて来られなかった。
ここから先には、聖剣を持つ者しか入れない。
「本当に一人で行くの、リオ?」
「大丈夫だよ、ノエル。……たぶん」
「たぶんって言った! 今、たぶんって言ったよね!?」
ノエルが、僕の袖をつかんで揺さぶる。三つ年上の僧侶なのに、こういうときは僕より子供みたいだ。
ボルドさんは腕を組んだまま、低い声で言った。
「いいか、坊主。剣の振り方は教えてやれんが、一つだけ覚えとけ。怖くなっても、目だけは閉じるな。目を閉じたやつから死ぬ」
だから、廃砦で黒い鎧の魔将の前に立ったとき、僕は死ぬと思っていた。
――でも、生きてる。
腰の聖剣の柄が、ほんのりと温かい。魔将の兜を割ったあの瞬間から、ずっとだ。
黒い煙に包まれて消える直前、兜の割れ目から見えた魔将の口元は、笑っていた気がする。僕が初めて畑の畝をまっすぐ引けた日に、村長さんがした顔に、よく似ていた。
歩きながら、聖剣の柄に指を添えた。
すると、頭の奥に、声が響く。
『――第一の封印、解放』
女の人の声だった。静かで、どこか眠たげな声。
『残る封印は、四つ。……五魔将を、倒しなさい』
声は、それきり聞こえなくなった。
五魔将。あの黒い鎧の魔将も、確かにそう名乗っていた。あんな相手が、まだ四人もいる。
――そのとき、地面が揺れた。
ずしん、と。
もう一度、ずしん、と。
街道の脇の林が、内側から押し倒されていく。
木をへし折って現れたのは、岩の塊だった。いや、違う。岩みたいな皮膚をした巨人――トロルだ。背丈は、村の見張り櫓より高い。
「あ……」
声が、出なかった。
村のおじさんたちが話しているのを、聞いたことがある。山奥の鉱山に棲んでいて、騎士団が十人がかりでやっと倒せる魔物――岩喰いのトロル。
こんな街道に、出るはずがない。
ノエルとボルドさんは、もう村の入り口に着いているころだ。助けを呼んでも、届く距離じゃない。
トロルの小さな目が、僕を見た。
ううん、僕じゃない。僕の腰の、聖剣を見ている。
「グ、オオオオ……」
丸太みたいな腕が、ゆっくりと振り上げられる。
逃げなきゃいけないのは分かっているのに、足が動かない。重心が、また踵に戻ってしまっている。
(剣は、足で――)
聖剣を抜いた。
でも、無理だと分かってしまう。あの魔将とは違って、このトロルは僕に何も教えてくれない。ただ、潰しに来ている。
拳が、落ちてくる。
目だけは閉じるな――ボルドさんの声を思い出したのに、僕は目を閉じてしまった。
――ずん、と重い音がした。
なのに、痛くない。
おそるおそる目を開けると、トロルの拳は僕の頭の上、手のひら一つ分のところで止まっていた。
止まっていた、というより――。
「……え?」
トロルの腕が、肘から先ごと、ずるりと地面に落ちた。
遅れて胴体に斜めの線が走り、その線に沿って、岩の巨体がゆっくりと二つにずれていく。
どさり。どさり。
トロルだったものが、街道に転がった。
切り口は、鏡みたいに滑らかだった。
膝が、今になって、がくがくと震え出す。
聖剣を握った手のひらが、汗でぬるりと滑った。
鞘に戻そうとして、二度、失敗した。
林の奥にも、街道の先にも、人影ひとつない。
「……誰か、いるんですか」
返事は、なかった。風が、草を揺らしているだけだ。
ただ、トロルの残骸の上に、黒いものが一枚ひらりと落ちてきた。
拾い上げると、それは黒い金属の破片で、縁が鋭く割れていた。
見覚えがある。ついさっき、僕が聖剣で割ったものだ。
廃砦から、ここまで。誰かが、ずっと僕のあとを歩いていたのだろうか。
「……先生?」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
なんで、先生なんて。あの魔将とは、ついさっき、初めて会ったばかりなのに。
手の中の兜のかけらは、まだ少しだけ、温かかった。




