第17話 参謀の勧誘
「雪の国の地図を、見ていただけだ」
俺は、何事もなかったように答えた。
卓の上には、もう何も残っていない。巻いた氷の地図は、セレスの手の中で水になって消えた。
「次は、セレス殿の番ですからね。勇者くんの迎え撃ち方を、先輩としてご指南されていたと」
「……そんなところだ」
「さすがは、一度勇者と戦ったヴァルガス殿。経験者のお言葉は、重みが違う」
ゼクスは、にこにこと笑いながら、氷の間に入ってきた。
足元の霜が、彼の靴の下で、きしりと鳴る。
「セレス殿。少しだけ、ヴァルガス殿をお借りしてもよろしいですか。男同士の話がありまして」
セレスが、俺を見た。
俺は、小さくうなずく。
セレスは無言で立ち上がり、ゼクスの横をすり抜けて、氷の間を出ていった。
すれ違いざま、ゼクスが彼女の耳元で、何かを囁いたのが見えた。セレスの肩が、ほんの一瞬、強ばる。
扉が閉まる。
氷の間に、俺とゼクスだけが残った。
「寒いですねえ、ここは」
ゼクスは、さっきまでセレスが座っていた氷の椅子に、外套を敷いてから腰を下ろした。
「さて。まどろっこしい話は、やめにしましょうか」
片眼鏡を外して、布で拭く。
レンズを外したゼクスの目は、拍子抜けするほど普通の目だった。疲れた、三十代くらいの男の目だ。
「あなた、エルディア・サーガのデバッグチームにいた人でしょう」
心臓が、一度だけ強く打った。
ゲームの名前を、この世界で初めて聞いた。
自分の口以外から。
「……何の話だ」
「隠さなくていいですよ。ブランシュの陣、あれを内側から止める方法を知っていたのは、陣の構造をテストした人間だけです。それに、セレス殿の氷を避ける、あの正確すぎる動き。当たり判定の端を、ミリ単位で知っている人間の動きでした」
ゼクスは、片眼鏡をかけ直した。
柔和な笑みが、また顔に戻る。
「デバッガーくん。あなた、発売前夜に会社の床で寝ていた人ですよね。私、その横を通って帰りましたから」
(……同じ会社の、人間)
頭の中で、開発チームの顔を順に思い浮かべる。
プログラマー。デザイナー。サウンド。プランナー。
その中に、いつも穏やかに笑っていて、何を考えているのか分からない男がいた。
シナリオチームの、まとめ役。名前は、確か――。
「……シナリオの」
「おや、覚えていてくださいましたか。光栄です」
ゼクスは、胸に手を当てて、芝居がかった礼をした。
「この世界の物語を書いたのは、私です。……少なくとも、最初の版は」
***
「最初の版、だと」
「ええ。あなたがテストしていたのは、改変された版です」
ゼクスは、氷の卓に肘をつく。
「私が最初に書いたエルディア・サーガは、こういう話でした。聖剣に選ばれた少年は、旅の途中で、あっけなく死ぬ。魔将の一人に敗れて、名もない街道で。世界は、救われない」
「……」
「美しいでしょう? 選ばれた者が、選ばれたというだけで、物語の主人公になれるわけではない。そういう話を、書きたかったんです」
ゼクスの声は、穏やかだった。
遠い昔の、懐かしい思い出を語るように。
「ですが、会社はそれを許さなかった。勇者は勝たなければならない。世界は救われなければならない。そうでなければ、売れないから。私の書いたシナリオは、ばらばらに切り刻まれて、別の人間の手で継ぎはぎされました」
片眼鏡の奥で、目が細くなる。
「私の書いた結末は、没になりました。……あなたの好きな言葉でしょう。没データ」
(――没エンディング)
テストのデータの中に、一度だけ、それらしいものを見た気がする。
どの条件でも到達できない、名前のないエンディングの断片。音も文字もなく、マップの端から色が抜けて、灰色が少しずつ広がっていくだけの映像だった。
誰も意味を説明できなくて、そのまま削除された。
「私は、この世界で目を覚ましたとき、すぐに分かりました。ここは、私の物語の世界だと。そして、改変された版のまま、動いていると」
ゼクスは、両手を広げる。
氷の間の天井を、仰ぐように。
「だから、直すんです。本来の結末に。勇者くんには、序盤で退場していただく。それが、この物語の、正しい形ですから」
「……世界が、滅ぶぞ」
「ええ。でも、それが私の書いた物語です」
ゼクスは、こともなげに言った。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
氷の間の寒さとは、別の冷たさ。
この男は、本気で言っている。
自分の書いた物語のためなら、世界ごと滅んでもいいと。
「あなたを、誘いに来たんですよ」
ゼクスは、身を乗り出した。
「あなたは、この世界の仕様を、誰よりも知っている。当たり判定も、没データも、隠し座標も。私は、物語を知っている。二人で組めば、この世界を、本来の形に戻すのは簡単です」
「……断ったら」
「別に、どうもしませんよ。あなたは、ただの中ボスですから。物語の本筋には、関係ない」
ゼクスは、にっこりと笑う。
「ただ、セレス殿の妹さんは、物語の本筋に関係あるんです。二章のボスが、最期に名前を呼ぶ相手ですからね」
氷の卓の上で、俺の拳が、固く握られた。
「リュシーを、どうするつもりだ」
「どうもしませんよ。セレス殿が、ちゃんとお仕事をしてくだされば」
ゼクスは立ち上がって、外套の霜を払う。
「雪の国で、答えを聞かせてください」
扉の前で、ゼクスは一度だけ振り返った。
「ああ、それと。一つ、教えておいてあげます。……原作のセレス殿が、最期に『ごめんね、リュシー』と言う理由。あれは、私が書いた台詞です。改変される前から、残っていた数少ない台詞の一つなんですよ」
扉が閉まる。
氷の間には、俺一人が残る。
(……あの台詞を、書いたやつか)
テストのとき、意味の分からない台詞だと思った。
誰の名前なのか、資料のどこにも書いていなかった。
書いた本人は、その名前の少女を今、氷の中に閉じ込めている。
自分の書いた台詞を、この世界で本当にするために。
氷の卓に残った拳の跡を、俺はしばらく見つめていた。




