第14話 地下の魔将
井戸の底に降りたときには、もう遅かった。
旧水路の奥から、金属のぶつかる音が響いてくる。
氷が砕ける音。そして、少年の荒い息づかい。
(あの子、ほんまに一人で降りたんか)
通路を走る。
北の二本目を右へ。崩れた三本目は避けて、東を回り込む。テストで三週間歩いた道だ。目を閉じていても走れる。
貯水槽の入り口に着いたとき、目に飛び込んできたのは白い光と白い霧だった。
陣の真ん中に、セレスが立っている。
その手前、陣の縁で、リオが聖剣を構えて肩で息をしていた。
リオの足元には、砕けた氷の槍が、いくつも転がっていた。
どれも、リオの体からわずかに外れた場所に突き刺さっている。
(……セレス、当ててへん)
全部、外している。
わざとだ。脅すように、追い払うように、少年の足元ばかりを狙っている。
「帰りなさい、勇者」
セレスの声は、冷たかった。
「ここは、子供の来る場所じゃない」
「帰れません。この下で、まだ何かが動いてる。止めないと、また町に魔物が出る」
「止められると思っているの? その腕で」
セレスの指先に、白い霧が集まる。
今度の氷の槍は、さっきまでのものより、一回り太かった。
「次は、外さないわよ」
リオの膝が、震えていた。
それでも、目は閉じていない。重心は、前に出たまま。
――セレスは、本気で撃つかもしれない。
ゼクスの命令は、「誰が来ても陣に触れさせるな」。そしてゼクスの目的は、勇者を殺すことだ。
ここで勇者を仕留めれば、セレスは命令以上の手柄を立てたことになる。妹を取り返す交渉が、できるかもしれない。
そして原作の二章で、勇者に倒されるはずの魔将が、ここで勇者を殺してしまう。
(どっちに転んでも、詰みや)
セレスが、指を振り下ろした。
太い氷の槍が、まっすぐリオの胸へ――。
届く前に、俺は二人の間に割り込んでいた。
大剣の腹で、氷の槍を受ける。
ずしりと重い衝撃が、腕に響いた。さっきまでの脅しの槍とは、まるで違う。
本気の一撃だった。
「……っ!」
背後で、リオが息を呑む気配がした。
セレスが、目を細める。
「また、あなた」
「ああ」
「その子を、かばうのね」
俺は答えなかった。
代わりに、大剣を構えたまま、セレスへ一歩近づく。
セレスの指先に、また霧が集まり始めた。
俺は、もう一歩近づいた。三歩の距離。リオには聞こえない距離。
「――セレス」
声を、限界まで落とす。
「俺が、負ける」
セレスの指が、止まった。
「お前の氷で、俺を吹き飛ばせ。陣の真ん中まで。それで、陣は壊れる」
「……何を、言っているの」
「陣は、内側からなら安全に止められる。外からでは無理だ。だが、俺が陣の中心に叩きつけられれば、話は別だ」
セレスの目が、陣の中心と俺の顔とを素早く行き来した。
「お前は、侵入者を撃退した。その侵入者が、たまたま陣の上に落ちて、陣を壊した。……お前の落ち度ではない」
ゼクスの命令は、守ったことになる。
陣に触れさせなかった。触れたのは、セレスに吹き飛ばされた侵入者だ。
「そして、勇者は、まだ倒すな」
俺は、もっと声を落とした。
「お前と勇者が戦うのは、雪の国だ。……今じゃない」
セレスの顔から、一瞬、表情が消えた。
雪の国。
原作で、彼女と勇者が戦う場所だ。なぜ俺がそれを知っているのか。そもそも、そこで戦うことがなぜ決まっているのか。
問い詰めたいことは、山ほどあったはずだ。
セレスは、何も聞かなかった。
ただ、小さく息を吐いた。
「……あなたって、本当に、変わったのね」
セレスの指先で、白い霧が、渦を巻いた。
今までで一番大きな氷の塊が、空中に生まれる。
人の背丈ほどもある、氷の鉄槌だった。
「――消えなさい、侵入者」
鉄槌が、俺の胸を打った。
足が、地面から浮いた。
大剣を手放さないように握ったまま、俺の体は、まっすぐ後ろへ吹き飛ばされていく。
陣の真ん中へ。
真っ赤に燃える、中心の紋様の、ど真ん中へ。
(よし、負けた!)
背中が、紋様に叩きつけられた。
黒鎧の背中で、赤い線がひしゃげる。
重さと勢いで、紋様が内側から押し潰される。触媒の石が、一つ、また一つと光を失っていく。暴走する暇も与えずに、陣全体が、ろうそくを吹き消すように静かに暗くなった。
地の底の振動が、止まった。
貯水槽の中が、真っ暗になる。
残っているのは、リオの聖剣の、白いかすかな光だけだった。
「……陣が、止まった……?」
リオの、呆然とした声がした。
仰向けに倒れたまま、俺は天井を見上げていた。
胸が痛い。鎧の上からでも、肋骨が二、三本いったのが分かる。セレスの鉄槌は、手加減なしだった。
手加減したら、勇者に見抜かれる。
それを分かっていて、彼女は本気で打ったのだ。
(……ええ一撃や。十点満点で、十点)
足音が近づいてくる。霜の花を咲かせながら、セレスが、倒れた俺の横を通り過ぎていった。
そして、リオの前で足を止める。
リオが、聖剣を構え直した。
震える切っ先を、セレスに向けて。
「あなたは……誰ですか」
「魔王軍五魔将が一人、氷のセレス」
セレスは、リオを見下ろした。
その声は、まだ冷たい。でも、さっきまでの刺々しさは、どこにもなかった。
「勇者。あなたはまだ、弱すぎる」
「……」
「雪の国で、待っているわ。それまでに、私と戦えるくらいには、強くなっておきなさい」
セレスは、それだけ言うと、リオの横を通り過ぎた。
出口の手前で、一度だけ足を止める。
振り返らずに、倒れている俺に向かって、小さく言った。
「借りは、返したわ」
足音が、闇の向こうへ消えていった。
――借り。
祭りの夜、俺が彼女に剣を抜かなかったことか。それとも、彼女の妹のことを、何も聞かなかったことか。
どちらにしても、律儀な魔将だ。
***
「大丈夫ですか!」
リオが駆け寄ってきた。
俺の横に膝をついて、聖剣の光で、俺の鎧を照らす。胸当てが、氷の鉄槌の形に、くっきりとへこんでいた。
「ひどい……! すぐ、ノエルを呼んで――」
「要らん」
上体を起こす。
肋骨が悲鳴を上げたが、声には出さなかった。ヴァルガスの体なら、三日もあれば治る。たぶん。
「それより、陣は止まった。お前が無事なら、それでいい」
リオは、俺の顔を見つめていた。
練習用の鉄兜の、隙間の奥を。
「あなたは、あの魔将に、わざと負けた」
疑問の形ですら、なかった。
「陣の真ん中に飛ばされるように。……そうですよね」
(この子、ほんまに目がいい)
テストプレイヤーに欲しい人材だ。
バグを見つける才能がある。
俺は、何も答えなかった。
答えないことが、そのまま答えになると分かっていて。
リオは、それ以上、問い詰めなかった。
代わりに、俺の手を、両手でぎゅっと握った。
「せん――」
言いかけて、リオは口をつぐんだ。
それから、少しだけ照れたように、言い直した。
「……ありがとうございました。町を、守ってくれて」
手を握り返すことは、できなかった。
この手は、一週間前、この子に剣を振り下ろした手だ。
だから俺は、ただ、軽くうなずいた。




