第13話 黒騎士と聖剣
ヒュドラの右の首が、口を開けた。
喉の奥で、緑色の光が渦を巻く。
毒の息だ。原作では、浴びると三ターンのあいだ毎ターン体力が削られる。現実なら、たぶん、もっとひどい。
リオは、まだトロル二体と斬り合っていた。
頭上の首に、気づいていない。
(間に合え)
屋根を蹴った。
瓦が砕け散る音を背中に残して、広場の真ん中へ落ちていく。
着地と同時に、大剣を地面に突き立てた。石畳が割れて、土煙が舞い上がる。
ヒュドラの息が、放たれた。
緑色の奔流が、リオの頭上に降り注ぐ――その手前で、俺はマントを広げた。
灰色の布が、毒の息をまともに受けて、じゅうじゅうと音を立てて溶けていく。その下の黒鎧には、毒は通らない。
ヴァルガスの鎧は、毒にも強い。設定資料に書いてあった。
原作では一度も、その設定が活かされる場面はなかったけれど。
「……え?」
リオが、振り返った。溶けて穴だらけになったマントの向こうに、俺の背中を見つけて、目を見開く。
「昨日の……!」
答えている暇はない。
リオに斬りかかろうとしていたトロルの片方が、拳を振り上げていた。
大剣を、横に払う。刃の腹で、トロルの脛を打つ。岩の巨体が、つんのめるように前へ倒れた。
――斬ってはいない。転ばせただけだ。
「小僧、前を見ろ」
低く、短く言う。
「倒れた奴の首の後ろ。岩の皮膚の継ぎ目だ」
リオの目が、倒れたトロルの首筋に動いた。
岩のような皮膚が、首の後ろでだけ、わずかに途切れている。原作では、トロルの弱点として設定されていた場所だ。
「は、はいっ!」
リオが跳んだ。
脇を締めて、まっすぐに。昨日、百回振った、あの形で。
聖剣が、トロルの首の継ぎ目に吸い込まれた。
岩の巨体が、どさりと崩れ落ちた。
広場のあちこちから、息を呑む声が上がる。
(よし。今の一撃、十点満点で八点)
残りのトロルが、こちらに向き直った。
ボルドが受け止めている一体と、ノエルの光の壁を殴り続けている一体、そしてリオの前のもう一体。
「戦士! お前の相手は膝が弱い。斧で膝裏を払え!」
ボルドが、ちらりとこちらを見た。
訝しげな目だったが、迷いは一瞬だった。大斧を低く構え直し、トロルの膝裏へ叩きつける。巨体が、がくりと膝をついた。
「おう、ほんとに崩れやがった!」
「僧侶! 壁を張り直すな、ひびの入った場所だけ厚くしろ。全体を張り直すと、張り直す一瞬に隙ができる!」
「なんで、そんなこと知って……! でも、分かった!」
ノエルの光の壁が、ひびの部分だけ、白く分厚く輝いた。
殴りかかったトロルの拳が、壁に弾き返される。
俺は、広場の真ん中で大剣を構えたまま、動かなかった。
――動かないように、していた。
トロルの一体くらい、一振りで倒せる。
だが、俺が倒したら意味がない。この広場で戦っているのは、勇者とその仲間でなければならない。
俺の仕事は、隙を作ること。
そして、声で教えることだ。
(廃砦のときと、同じやな)
あのときは、魔将の台詞の形で怒鳴った。
今は、名前のない傭兵として、低く短く。言っている中身は、何も変わっていない。
***
広場のトロルを四体倒したところで、ヒュドラが動いた。
二本の首が、同時に鎌首をもたげる。
今度は、左の首も口を開けていた。喉の奥で、赤い光が渦を巻いている。
(右が毒、左が炎)
二方向から同時に吐かれたら、俺のマントでは防ぎきれない。
ノエルの壁でも、無理だ。
「全員、俺の後ろへ!」
叫んだのと、二本の首が息を吐いたのは、ほとんど同時だった。
緑と赤の奔流が、空中で絡み合いながら降ってくる。
俺は大剣を両手で握り、刃の腹を盾のように掲げた。
衝撃が腕から肩、腰、膝へと突き抜けた。
足元の石畳が、放射状に割れていく。熱と毒の霧は刃の縁から溢れて、俺の背中の後ろへは届かずに左右へ流れていった。
背後で、子供の泣き声がした。
ノエルが、子供たちを抱きかかえて、俺の背中の陰にうずくまっている。ボルドが、その前に大斧を構えて立っていた。
そしてリオは――俺の、すぐ横にいた。
聖剣を握って、ヒュドラを見上げている。
怖いはずだ。膝が、小さく震えている。
なのに、目だけは閉じていなかった。
「……あれは、僕じゃ倒せないですよね」
リオが、ぽつりと言った。
息が収まりかけた中で、ヒュドラの首を見上げたまま。
「首が二つあって、片方を斬っても、もう片方が残る。それに、あの鱗。トロルの岩より、ずっと硬そうです」
「……そうだ」
「でも、あなたなら倒せる」
リオは、俺の兜を見上げた。
「さっきから、あなたは一度も、本気で剣を振ってない。全部、僕たちに倒させてる。……そうですよね?」
(バレとる)
十五歳の目は、ごまかせなかった。
リオは、聖剣を握り直した。
そして、ヒュドラへ向き直る。
「だから、お願いします。僕が囮になります。あいつの目を、僕に向けさせるので――」
「駄目だ」
「えっ」
「囮は、要らない」
俺は、大剣を下ろした。
刃の先を、地面すれすれに構える。
「お前は、斬れ」
「……え?」
「あの首と首の付け根。二本の首が分かれる、ちょうどその場所に、一本だけ鱗の生えていない筋がある。見えるか」
リオが、目を細めた。ヒュドラの胸元、二本の首が一つの胴につながる場所。灯籠の火に照らされて、そこだけが鈍く、湿ったように光っている。
「……見えます」
「あそこを、まっすぐに斬れ。昨日、百回振った形で」
「でも、届かない。高すぎます」
「届かせてやる」
リオが、俺を見た。俺は、自分の膝を叩いた。
「俺の膝を踏め。肩を踏め。そこから跳べ。――怖くなっても、目だけは閉じるな」
リオの目が、大きく見開かれた。
「……それ、ボルドさんの」
「いい言葉だ。覚えておけ」
背後で、ボルドが短く鼻を鳴らす。
***
ヒュドラが、三度目の息を吸い込んだ。
二本の首が、大きくのけぞる。
喉が膨らみ、赤と緑の光が、牙の隙間から漏れ出す。
(今や)
「行け!」
リオが走った。
一歩目で、俺の膝を踏む。
二歩目で、肩を踏む。
三歩目で、空へ跳んだ。
灯籠の火の粉が舞う夜空に、白く輝く剣を握った少年の影が、高く、高く浮かび上がる。
広場じゅうの人間が、それを見上げていた。
逃げ遅れた町の人々も、子供たちも、ノエルも、ボルドも。
ヒュドラの四つの目も、空の少年を見上げていた。
――俺から、目を離して。
俺は、大剣を握った。
リオの剣が、首の付け根に届く。
その一瞬だけ、ずらして。
リオの聖剣が、鱗のない筋に吸い込まれた。
白い光が弾ける。浅い。それでも、確かに刃が通った。
その光の真下から、俺は黒閃を放った。
振り上げた大剣の軌跡が、黒い三日月となって、夜空を駆け上がる。
リオの剣が刻んだ傷を、そのまま、なぞるように。
音は、遅れてやってきた。
ずん、と。
ヒュドラの胴が、首の付け根から、縦に裂けた。
二本の首が、それぞれ別の方向へ、ゆっくりと傾いていく。
巨大な体が、川べりの石垣を崩しながら、水しぶきを上げて川に沈んだ。
リオが、落ちてくる。
俺は大剣を放り出して、両腕でそれを受け止めた。
腕の中で、リオがまばたきをした。
何が起きたのか分からない顔で、川に沈んでいくヒュドラを見つめている。
広場が、静まり返っていた。
今だ。
この沈黙が破れる前に、物語を決めなければならない。
俺はリオを地面に下ろすと、大きく息を吸い込んだ。
ヴァルガスの声は、もともと、広い玉座の間の隅々まで届くように作られている。
「――見よ!」
広場じゅうに、声が響き渡った。
「勇者の聖剣が、怪物を貫いたぞ!」
一拍の沈黙。
それから、広場の端で、誰かが叫んだ。
「ゆ、勇者様だ……!」
「聖剣が光った! 見たぞ、俺は見た!」
「勇者様が、町を救ってくださったんだ!」
歓声が、波のように広がっていく。
子供たちが、泣き顔のまま、リオを指さして跳びはねていた。
リオは、まだ呆然と立っていた。
自分の聖剣を見下ろしている。白い刃には、ヒュドラの血が、ほんの少しだけついていた。
ほんの少しだけ。
あの巨体を両断した刃にしては、少なすぎるくらいに。
リオが、ゆっくりと顔を上げた。
俺を見る。俺の大剣を見る。大剣の刃に、べっとりとこびりついた、ヒュドラの血を見る。
「……僕の剣、届いてないですよね」
小さな声だった。
歓声にかき消されて、俺にしか聞こえないくらいの。
「届いた」
俺は、短く答えた。
「お前が斬った場所を、俺がなぞっただけだ。お前が斬らなければ、俺には斬る場所が見えなかった」
――半分は、嘘だ。
でも、半分は本当だった。空を跳んだ少年に、あの怪物の四つの目がすべて向かなければ、俺の黒閃はここまで綺麗には通らなかった。
リオは、何かを言いかけて、口を閉じる。
聖剣を鞘に収めて、俺に頭を下げた。
深く、長く。
***
広場の歓声は、なかなか鳴りやまなかった。
ボルドが、残ったトロルの最後の一体を、大斧で仕留めたところだった。
町の衛兵たちが、ようやく駆けつけてきて、燃えている屋台に水をかけ始めている。
だが、まだ終わっていない。
足元の石畳から、かすかな振動が伝わってくる。
地の底で、何かが、まだ脈打っている。
(陣が、まだ動いとる)
トロルは二十体。地上に出てきて、広場で倒したのは、六体。
残りの十四体は、まだ陣の中で、這い出してくる途中のはずだ。陣に魔力が残っている限り、いずれ町に溢れ出す。
旧水路の、あの陣の中心を。
今度こそ、断ち切らなければならない。
振り返ると、リオがいなかった。
「リオ!? リオ、どこ行ったの!?」
ノエルが、子供たちに囲まれながら、あたりを見回している。
広場の端。古い井戸のある、町外れへ続く路地。
その暗がりへ、金髪の後ろ姿が、駆けていくのが見えた。
(……あいつ、地下の振動に気づいたんか)
旧水路には、まだセレスがいるかもしれない。
今のリオがセレスと戦えば、どうなるか。
原作の二章のボスと、レベル四の勇者が戦えば。
――どちらかが、死ぬ。




