第12話 溶けやすい氷
氷は、びくともしなかった。
全身に力を込める。肩を回そうとする。膝を曲げようとする。
どこも、指一本分も動かない。
(落ち着け。こういうときは、仕様を疑え)
セレスの氷は、原作では「行動不能」の状態異常だった。
一定の時間が経つか、外から炎の攻撃を受けると解ける。プレイヤーが閉じ込められたときは、仲間の魔法使いが溶かしてくれる仕組みだ。
今の俺に、仲間はいない。
時間を待てば、そのあいだに町が壊滅する。
頭上で、また鐘が鳴った。
地響きが、天井から細かな砂を降らせる。トロルが、地上に這い出していく振動だ。
(なんか、ないか。なんか――)
そのとき、気づいた。氷の、内側の手触りが、外とは違う。
外側は、つるりと硬い。
けれど、鎧と氷が触れ合っている内側は、ざらついていた。まるで、粗い雪を押し固めただけのように。
試しに、右の肘に力を集める。
氷の内側が、みしり、と鳴った。
――割れる。
外からはびくともしないのに、内側からなら、割れる。
そういうふうに、作ってある。
「……あいつ」
思わず、声が漏れた。
セレスは、陣を守れと命じられていた。誰が来ても、触れさせるなと。
だから彼女は、俺を止めた。陣が目を覚ますまで、確実に。
でも、陣が目を覚ましたあとのことまでは、命じられていない。
――その氷、朝には溶けるようにしてあるから。
一昨日の夜、彼女はそう言った。
今夜の氷には、何も言わなかった。言わなくても、俺なら気づくと思ったのかもしれない。
(取引の相手は殺さない、か。……ほんまにそれだけか?)
考えている暇はなかった。
右の肘で、内側から氷を押し広げる。
ひびが走る。左の肩。腰。膝。ひびがつながって、氷の塊全体が、細かな網目に覆われていく。
大剣を握ったままの右腕を、思い切り振り下ろした。
氷が、粉々に砕け散った。
膝をつく。呼吸が荒い。
顔を上げると、陣の中心の紋様が、真っ赤に燃えていた。
今から断ち切っても、もう遅い。
呼び出された魔物たちは、とっくに地上へ出ている。それに、陣はまだ動き続けていた。魔力が残っている限り、二度目の召喚が起きるかもしれない。
だが、それはあとだ。まずは、地上だ。
***
井戸から這い出した瞬間、熱風が顔を打った。
町が、燃えていた。
祭りの灯籠が、あちこちで地面に落ち、屋台の布に燃え移っている。
悲鳴が、四方から上がっていた。逃げ惑う人々の向こうで、岩のような巨体が、家の壁を殴り壊している。
岩喰いのトロル。一体、二体、三体――目に入るだけで六体。
(陣の文字列は、二十体やった。ここに出てるのが六体……残りは、まだ陣の中で召喚の途中か)
陣が動き続ける限り、残りの十四体も、いずれ這い出してくる。
広場の方角から、金属のぶつかる音がした。
剣の音だ。それに、聞き覚えのある、太い声。
「ノエル、下がれ! 子供たちを教会へ連れて行け!」
ボルドの声だった。
屋根から屋根へ跳び移りながら、広場へ向かう。
ヴァルガスの体は重いが、脚力はそれ以上に強い。屋根瓦を踏み抜きながら、三つ目の屋根を越えたところで、広場が見えた。
灯籠の櫓が、半分倒れていた。
その前で、三つの人影が、四体のトロルに囲まれていた。
ボルドが大斧で一体の拳を受け止め、足を地面にめり込ませている。
ノエルが、怯える子供たちを背中にかばいながら、光の壁を張っている。壁には、すでに無数のひびが入っていた。
そしてリオが、一人で二体のトロルの前に立っていた。
聖剣を構えている。重心は、前。脇は、締まっている。昨日教えたとおりの、まっすぐな構えだ。
でも、足りない。
岩の皮膚には、リオの剣は浅くしか通らない。一体に斬りつけるたびに、もう一体の拳が横から襲いかかる。それを転がって避けて、また斬りつける。
リオの頬には、もう血がにじんでいた。
(……まだ、立ってる)
廃砦のときなら、とっくに膝をついていたはずだ。
それが今は、二体のトロルを相手に、一歩も退いていない。
助けに入るか。黒い鎧で、正体を隠した、傭兵の姿で。
入るに決まっている。問題は、どう入るかだ。
この町の誰もが、今夜のことを覚えている。
灯籠祭りの夜、町を救ったのは誰だったか。それは、この先ずっと語り継がれる。
救ったのが、名前も知らない傭兵であってはいけない。
聖剣を持った少年でなければ、いけない。
勇者が勇者として名を上げるのも、封印を解くのと同じくらい、原作の大事な筋書きなのだから。
(……主役は、あくまで勇者くんや)
練習用の鉄兜の留め金を、強く締め直す。
そのとき、川のほうから、ずるりと重いものが這い上がる音がした。
広場の端、川べりの石垣が、内側から崩れ落ちる。
水しぶきとともに、巨大な何かが、灯籠の光の中に首をもたげた。
一つ。もう一つ。
蛇のように長い首が、二本。
家の屋根より高い位置で、四つの黄色い目が、広場を見下ろしていた。
――双頭のヒュドラ。
広場の悲鳴が、一瞬、途切れた。
ヒュドラの二つの首が、同時に、ゆっくりと向きを変える。
四つの目が見つめているのは、白く輝く剣を握った、一人の少年だった。




