第39話:集団土下座と、貸し切りの温泉街
湯上がりの冷たい瓶牛乳。
腰に手を当て、一気に飲み干す。
完璧な温度。
オロチの熱量と純化された魔力が溶け込んだ霊泉。
疲労の蒸発。
「カケル君、お肌ツルツルだよ。これ、本当にすごい温泉だね」
浴衣姿の未亜が、自分の頬を触り微笑む。
隣では、セレナが手際よく麦茶をグラスに注ぐ。
スマート家電のごときメイドの挙動。
ドタドタドタドタッ!
部屋の外。長い廊下から、大勢の足音。
ただの宿泊客ではない。何十人もの人間の気配。
「団体客か」
最上級スイートのフロア。一般客は立ち入らない。
「マスター。ドアの外に周辺一帯の地権者と施設管理者が集結しています。数、約五十」
セレナの報告。
システムのエージェントとしての索敵能力。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!
異常な頻度のインターホン。
テレビの音が聞こえない。
サンダルを突っ掛け、ふすまを開ける。
「あっ……! い、いらっしゃいましたぞォォォッ!」
「「「ははぁーーーーッ!!」」」
開けた瞬間。
廊下を埋め尽くす和装の男女が一斉に平伏した。
畳に額を擦りつける見事な土下座。
先頭に、白髭を蓄えた恰幅の良い老人。
「なんなんだ、あんたたち」
「私は、富士山麓温泉組合の組合長! 本日は、天羽様にひれ伏すために参上いたしました!」
「ひれ伏す?」
老人は、感極まった声を震わせる。
「奇跡です! 冷え切っていた地脈が蘇り、かつてない純度と莫大な熱量を持った『神の霊泉』へと進化を遂げたのです!」
背後の女将や番頭たちも涙ながらに頷く。
「効能を調べた専門家が泡を吹いて倒れました! 寿命すら延ばしかねない規格外の神泉! 我々の温泉街は、あなたの手によって世界最高の癒やしスポットとして生まれ変わったのです!」
大真面目な絶叫。
ただ地下のボイラー室に行き、給湯器の『追い焚き』スイッチを入れただけ。
オロチの残骸の燃料利用。
「いや、ちょっとお湯温めただけなんで」
「おおお……! その謙虚さ、生ける伝説……! この御恩、温泉街全域を挙げてどう報いれば!」
大勢での押しかけ。
リラックスタイムの明確な阻害。
「なら、静かにしてもらえますか。テレビの音が聞こえないんで」
「……え?」
組合長がぽかんと口を開けた。
「人が多いと落ち着かないんですよね。のんびり静かに過ごしたいんで。とりあえず、この旅館は俺たちの貸し切りってことでよろしく」
ドライに言い放つ。
静かなプライベート空間の要求。
「か、貸し切り……ッ!?」
「迷惑ですか」
「い、いえ! むしろ、それだけでよろしいのですか!?」
組合長が顔を上げる。
「天羽様がそう望まれるのであれば! この天月閣のみならず、周辺の全施設を『天羽様直轄の不可侵領域』として即時封鎖いたします! 今後、あなたがこの街を訪れる際は、すべての施設が超VIPの貸し切り状態でお迎えすることをお約束いたしますゥゥッ!」
「助かります。じゃ」
バタン。
ドアを閉める。
廊下からの万歳三唱は、防音のふすまが完全に遮断した。
「マスター。温泉街全域の権利書とVIP待遇の電子契約、処理を完了しております。以降、この街はマスターの第二の裏庭として機能します」
セレナがスマホの画面を差し出す。
迅速な実務処理。
「ご苦労。もう一回風呂入るか」
夜空に浮かぶ星。
ライトアップされた富士山。再び露天風呂のお湯に肩まで浸かる。
街一つのトップへの君臨。
静かな湯船と、隣の幼馴染。
「ふふっ、カケル君、おじいちゃんみたい」
未亜がクスクスと笑う。
完璧に整備されたインフラ。絶対のプライベート空間。
ふと、湯船の縁に顎を乗せた未亜が、星空を見上げて呟いた。
「ねえ、カケル君。温泉の次は、どこに行こうか」
「ん? そうだな」
未亜は、少しだけイタズラっぽく微笑む。
「次はね、北海道の新鮮なカニ、食べたいな!」
富士山の麓で、北海道の海鮮の要求。
通常なら何十時間もかかる移動。
手元には、距離をゼロにする『転移の延長コード』と、世界中から特産品をデリバリーさせる『物流パス』。
「北海道か。まあ、なんとかなるだろ」
温泉の熱いお湯を手ですくい、顔を洗う。
物流網と空間転移の掌握。
幼馴染の要求は、朝飯前のただのお使いタスクに過ぎなかった。




