第38話:給湯器の追い焚きと、温泉街の掌握
「冷たい……」
テラスに備え付けられた専用露天風呂。
手を入れた未亜が、肩を落とす。
富士山を一望できる絶景の湯船。満たしているのはただの冷水。
立ち昇っていた豊かな湯気は完全に消失。
「気にするな。ちょっと源泉見てくる」
浴衣姿のまま、部屋を出る。
後ろから、セレナが静かに付き従う。
「マスター。源泉のポンプ室は、本館の地下最下層に位置しています。ご案内します」
元・神のエージェント。
すでに旅館の構造図を完全に処理・把握している。
最高峰のスマート家電。
セレナの案内に従い、薄暗い地下のボイラー室へ。
鎮座する巨大な魔力ポンプ。
富士の地脈から温泉を汲み上げ、熱を与えるための古代魔導具。
魔力回路はショートし、沈黙している。
樹海でのオロチ自滅の余波。地脈の乱れ。
視界の端で『論理最適化』のスキルを起動。
半透明のホログラムウィンドウを展開する。
『プロセス:温泉源の加熱および循環』
『ステータス:熱源の完全喪失による機能停止』
『警告:住人のリラックスタイムの深刻な阻害』
真っ赤なエラーログ。
冷めたお湯を温め直す。
家庭用給湯器の『追い焚き』機能。
樹海で燃え尽きたS級ボス、オロチ。
自爆プロセスで暴走させた極大の熱エネルギーが、地脈の底に残留している。
極上の天然燃料。
ターゲットを『地脈の残留熱エネルギー』に設定。
ボイラーの魔力回路へとパイプで直結。
ホログラムパネル上に、給湯器のインターフェースを上書き。
お湯の温度は、四十二度に設定。
温泉成分の『効能』も最適化。
疲労回復、美肌効果、魔力パスの浄化。
不純物を濾過し、最高純度の成分だけを抽出する設定。
「よし。追い焚き、スイッチオン」
パネルの実行ボタンをタップ。
カチリ。
赤いエラー表示が『正常』へと切り替わる。
ゴウンッ……!
地鳴りのような重低音。
沈黙していた巨大ボイラーが息を吹き返す。
オロチの莫大な熱量が、地脈を通ってポンプへと注ぎ込まれる。
パイプラインが赤熱。
シューゥゥゥゥッ!
バルブから、濃密な湯気が噴き出す。
微かな硫黄の匂い。
S級ボスの熱量と純化された魔力が溶け込んだ霊泉。
スーパー銭湯の完成。
「完璧だな。戻るぞ」
「はい、マスター」
セレナが恭しく頭を下げる。
冷え切った地下室を後にし、最上級スイートへと戻った。
「カケル君、すごい! お湯、出てるよ!」
テラスから未亜の弾むような声。
冷水だった湯船から、真っ白な湯気がもうもうと立ち昇る。
極上の温泉の復活。
「ちょうどいい温度だ。入ろうぜ」
肩までお湯に浸かる。
「ふぁぁ……」
情けない声が漏れた。
肌にまとわりつく滑らかな泉質。
身体の芯まで熱が浸透し、疲労が溶け出す。
「すっごく気持ちいい……。肌もツルツルになる気がする」
未亜が頬を緩める。
地脈の底で燃え尽きたS級ボスが、バカンスを温めている。
敵の残骸の、小市民的な娯楽インフラとしての再利用。
目を閉じ、心地よい湯の音に耳を傾けた。
***
温泉街の地下深く。
地脈を走る魔力網の全域。
ボイラー室から接続された『オロチの熱源』。
その莫大なエネルギーのパイプラインは、旅館『天月閣』だけでなく、富士山麓の温泉街全体の地下水脈へと一気に波及。
既存のシステムの魔力回路を、黒いノイズが強引に上書きしていく。
『……警告。対象エリアの管理権限の喪失を検知』
『該当座標の地脈ネットワークが、未知のユーザー(天羽カケル)によって占有されました』
管理者の上位次元に響く、無機質なアラート。
一個人の温泉の給湯システム最適化。
それは結果的に、この広大な温泉街一帯の魔力支配権を、システムから個人へと完全に書き換える行為。
温泉街全域が、カケルの魔力領域。
第二の『プライベートダンジョン(秘密基地)』の誕生。
電話越しに絶叫する権威すら必要ない。世界の根幹システムそのものが、静かに管理権限を強奪された事実を告げていた。
「ふう。風呂上がりの牛乳でも頼むか」
極上の湯に浸かりながら、欠伸を一つ。
無自覚なインフラ拡張が、この富士山麓を完全な不可侵領域へと変貌させた。




